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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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46. 控訴審第一回公判

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

東京高等裁判所の第10刑事部、静まり返った法廷に張り詰めた空気が漂っていた。傍聴席には記者や市民がぎっしりと詰めかけ、前列には事件を追ってきたジャーナリストたちのペンが光っている。

挿絵(By みてみん)

入廷を告げる声とともに、裁判官が姿を現した。


中央に座ったのは張本裁判長、六十三歳。眼鏡の奥の瞳は鋭く、それでいて冷静な光を宿している。長年の経験で鍛えられた沈着さが、その立ち居振る舞いににじんでいた。

「それでは、控訴審第一回公判を開きます。」

張本の低く落ち着いた声が法廷に響く。


検察席では、伊勢崎検事がすぐに立ち上がった。

「原判決には事実誤認と法令解釈の誤りがあります。DNA鑑定結果、及びアミラーゼ反応の評価を誤り、被告人に有利な判断を下したことは明らかです。」

その声は力強く、だがどこか焦りを押し隠しているようでもあった。


弁護席では、主任弁護人が淡々と応じる。

「検察は“量”という新しい争点を持ち出しましたが、鑑定過程の不備は覆いようがありません。標準試料の記録は残されず、追試も不可能。これは科学ではなく、推測です。」

傍聴席の一角でペンが走り、記者たちが互いに顔を見合わせる。“控訴審の最大の焦点はやはりDNAか”――その思いが誰にも共有されていた。


張本は両者の主張を聞きながら、一度も表情を変えなかった。椅子に深く腰掛け、両手を組み、時折うなずくだけ。だが、審理の合間に見せるわずかな視線の揺れに、法廷の誰もが彼の思考の深さを感じ取っていたようだった。

「検察側は、鑑定の信用性を補強する証人を申請するのですか?」

張本の問いに、伊勢崎は即答した。

「はい。元科捜研研究員・高橋麻衣子氏を改めて招致したいと考えております。」

「弁護側の意見は?」

「証拠の新規性に欠け、却下されるべきです。」

静寂が走る。張本は両者を交互に見やり、少し間を置いてから言葉を発した。

「検討の上、追って判断します。本日はここまでといたします。」

木槌が打たれると、緊張が一気にほどけた。だが誰もが知っていた――この控訴審は単なる続きではなく、まったく新しい闘いの始まりであることを。張本裁判長は退廷の際、一瞬だけ空を仰ぐように目を細めた。


六十三歳。定年まで残された時間はわずかだ。その表情には、法と社会、そして自らの名誉を天秤にかける裁判官の重い覚悟が滲んでいた。


重厚な扉が閉じられると同時に、法廷は静まり返った。傍聴席には、これまで事件を追ってきた市民や記者に加え、広瀬医師とナース相田の姿もあった。二人は真剣な眼差しで被告席を見つめ、仲間である外科医の未来を案じていた。その数列後方に、山川友理奈が座っていた。彼女は倉科ミカの友人で、この裁判をどうしても自分の目で見ておきたいと足を運んだのだった。長い髪を耳にかけ、静かに裁判長の顔を追う。

――どこかで見たことがある。

張本裁判長の声は低く、響きがあり、威厳に満ちている。だが、その横顔に浮かぶ皺や眼鏡の奥の目つきに、奇妙な既視感が友理奈の胸をざわつかせた。

「…誰だったかしら。」

記憶の奥を手繰るように彼女は目を細める。法廷の静寂の中、心臓の鼓動だけが自分に響く。やがて、ふとした瞬間に裁判長が視線を上げ、傍聴席の方を一瞥した。その一瞬で、友理奈の脳裏に夜の街の光景が蘇った。

――はっ。

彼女は小さく息を呑んだ。数か月前、自分が働く「おさわりバー」にやって来た、あのスーツ姿の男。

落ち着いた口調でウィスキーを頼み、手つきだけは妙にねっとりしていた客――まさに、いま目の前にいる張本裁判長の顔だった。

「うそ…」

心の中でそう呟き、背筋に冷たいものが走る。夜の顔を知る自分だけが、ここにいる裁判長の“裏の姿”を知っているのだ。法廷という厳粛な場に立つ男と、夜の街に現れた男。二つの像が重なり合い、彼女の心は混乱していた。

――この人が、本当に公正な裁きを下せるのだろうか。

友理奈の視線は、裁判長から離れることができなかった。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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