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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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3. 乳房のしこり

現役医師による小説は面白いか?



まぶしく光る長方形のライトボックスが、無影灯のように撮影セットの全体を照らし出していた。その光を一身に浴びているのは、ピンク色のビロードシーツが敷かれた台座と、その中央に横たわる一人の女。倉科ミカ、三十五歳。彼女の仕事は、その身体を商品として、カメラのレンズの向こう側にいる不特定多数の男たちの欲望を刺激することだ。

そこは、都心から少し離れた、古いレンガ造りの雑居ビル二階にある撮影スタジオだった。要求されたポーズに応えながら、ミカは自身の身体の変化を冷静に分析していた。かつて、この業界で武器になったはずの、くびれた腰のラインは甘くなり、重力に逆らっていたはずのバストは、僅かにその位置を下げ始めている。何より、顔だ。高性能なカメラと照明技術をもってしても、目尻に刻まれた細かな皺や、口元のほうれい線を完全に消し去ることはできない。経年劣化。機械や建物に使われるその言葉が、ミカには自分のことのように思えた。

「はい、オッケーです! お疲れ様でした!」

カメラマンの声が響くと同時に、ミカの顔から、なまめかしい笑みが消えた。彼女は無言で台座から立ち上がると、周囲のスタッフに軽く会釈だけして、足早に控室のパウダールームへ向かった。プロとしての仮面を外した顔は、ひどく冷たく、そして硬い。


控室の大きな鏡が、現実の姿を容赦なく映し出す。ミカは、そこに映る自分に向かって、ため息とも諦めともつかない、乾いた息を吐き出した。撮影でかいた汗の不快感を洗い流すため、彼女は隣接するシャワールームのドアを開けた。熱い湯が、疲れた身体に染み渡っていく。好きなブランドの、フローラルな香りの石鹸を手に取り、全身に泡を塗り広げていく。それは、一日の仕事を終えた後の、彼女にとっての唯一の儀式だった。柔らかく、円を描くように身体を洗う。その右手のひらが、右の乳房に触れた。そして、ゆっくりと撫でるように、ごく軽い圧力をかけた、その瞬間だった。


指先に、周囲の脂肪組織とは明らかに異なる、異質な感触が伝わった。弾力、そして硬さ。それは、皮膚の下に埋め込まれた、小さな硬いゴムボールのようだった。

全身の血が、一瞬で凍りつくような感覚。ハッと、身体が大きく揺れた。 ――また、しこりができた? 脳裏に、自問する声が響く。ミカには、経験があった。五年前、三十歳の時だ。今回と同じ、右の胸に同じような腫瘤を見つけ、摘出手術を受けたのだ。

幸い、あの時は病理検査の結果、良性腫瘍だと診断された。追加の治療は必要なく、経過観察のみで済んだ。執刀したのは、当時から乳腺外科の若き権威として知られていた、神崎という医師だった。モデルという職業柄、傷が残ることを何より恐れていたミカに対し、神崎は乳輪に沿って最小限の切開を施し、腫瘍だけを的確に摘出してみせた。その手際は完璧で、今ではどこにメスを入れたのか、自分でも判別が難しいほどだ。


今回も、右。あの時と同じ側の胸に、同じ悪夢が再現されようとしている。 ――これも、良性のはずだ。きっとそうだ。 ミカは自分に言い聞かせ、頭を振って不安を打ち消そうとした。パニックになっても、何も解決しない。まずは、事実を確認することが先決だ。彼女は気を取り直すと、震える手でシャワーのコックをひねり、一連の儀式を終わらせた。だが、指先に残ったあの硬い感触だけは、どうしても消し去ることができなかった。


シャワーを終え、指先に残る硬い感触から意識を逸らすように、ミカは手早く着替えを済ませた。鏡を見ることは、もうしなかった。今はただ、この空虚なスタジオから一刻も早く立ち去りたかった。荷物をまとめた彼女が、控室のドアを開け、スタジオの出口へ向かおうとした、その時だった。背後から声をかけられた。

「……ミカ。」

振り返ると、そこに立っていたのは園部だった。このスタジオのマネージャーだ。

四十代半ば、以前と同じく柔和な笑顔を浮かべているだろうと想像していたが、そこには何もなかった。彼の顔に宿っていたのは、押し殺したような躊躇いと、言葉を探す視線だけだった。

「……園部さん。」

ミカは思わず声を低くした。胸の奥に冷たいものが落ちてくる。昔、まだ二十代だった頃、彼に強引に誘われて、そのまま関係を持ったことがある。嫌いではなかった。むしろ、一時は惹かれていた。だが今は互いに仕事をもって忙しく、昔のような関係は色を失っていた。

「体調は……どうだ。」

口先だけの言葉。それ以上に、彼が何か別のことを言いたがっているのは明らかだった。だがその言葉は、喉の奥で絡まり、出てこない。

ミカは先に切り出した。

「用件は……それだけですか。」

園部は小さく首を振る。

「いや……本当は、少し伝えなきゃいけないことがある。」

「……何ですか。」

一瞬、彼の唇が動いた。しかしすぐに閉じられる。代わりに浮かんだのは、長い沈黙と曖昧な苦笑だった。

彼は、申し訳なさそうなジェスチャーでミカに近づくと、周囲に他のスタッフがいないことを確認してから、声を潜めた。

「実は、本社の上層部が、この雑誌の廃刊を検討しているらしいんだ。それで…、今後のグラビア撮影は、一旦すべて見合わせることになりそうだ」

園部は、心底残念だという表情を作って、そう言った。 ミカの思考は、一瞬停止した。だが、それは驚きによるものではない。あまりに予想通りの言葉だったからだ。彼女はすぐに、園部の言葉の裏にある、本当の意味を正確に読み取っていた。

挿絵(By みてみん)


2016年に起きた乳腺外科の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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