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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
35/65

34. 釈放

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

東京地裁の小法廷

午後の光が高い窓から差し込み、傍聴席の木のベンチを斜めに照らしていた。裁判長の声は、いつものように抑揚を排したものだった。

「それでは、本件保釈請求について裁判所の判断を述べます――」

神崎医師は被告人席で、両手を膝の上に組みしめていた。長く乾いた指先が、かすかに震えている。後方の傍聴席には記者たちが身を乗り出し、弁護団の三人――高見、今村、三谷が固唾をのんで裁判長を見上げていた。

「勾留が三か月を超えて継続しており、主要な証拠の収集はすでに終了しています。これ以上、証拠隠滅の恐れは乏しいと認められる。また被告人は医師であり、生活基盤は国内にあることから逃亡の恐れも小さい。よって――本件保釈請求を許可します。」

短い一文だった。


しかし、その瞬間、神崎の胸を圧し続けていた重しがふっと浮き上がったように感じられた。彼は小さく目を閉じ、深く息を吐いた。傍らの高見弁護士が、静かに肩に手を置いた。

「……よかった。ようやく、ご自宅に戻れますね。」

記者席がざわめき、鉛筆が一斉に走る音が聞こえる。


退廷後、弁護団の控室。

机の上に散らばった分厚い記録の束を前に、高見が柔らかな声で言った。

「先生、まだこれで戦いが終わったわけではありません。ただ、今日だけは――ようやく人間らしい生活に戻れる。まずはそれを噛みしめてください。」

関根は唇を噛み、言葉にならない感情を押し殺すようにうなずいた。


保釈の日

12月末の寒い午後、留置場の鉄格子の向こうに看守の足音が響いた。

「神崎、出るぞ。支度しろ」

低い声に、神崎彰は一瞬耳を疑った。長い日々、拘留期間は実に105日だった。

弁護士の高見から「保釈請求を続けている」と聞かされてはいたが、検察が頑なに反対していることも承知していた。心のどこかで、また却下されるのではないかと諦めかけてもいた。

「……保釈、通ったのか」

小さくつぶやいた声は震えていた。留置場の狭い布団に畳んであった私物を袋に詰めながら、神崎の胸には複雑な思いが渦巻いた。自由になれる安堵と同時に、世間からの視線にさらされる恐怖。

挿絵(By みてみん)

廊下を歩くと、鉄の扉が一つずつ開かれていく。冷たい蛍光灯の光に照らされ、出入口の前には高見弁護士が待っていた。

「先生、お疲れさまでした」

その顔に浮かぶのは、安堵と緊張の入り混じった笑みだった。玄関に向かう途中、窓の外に集まるカメラの群れが目に入った。マスコミのフラッシュが白い稲妻のように走り、報道陣のざわめきが波のように押し寄せる。

「先生! 一言お願いします!」

「無実を主張されるんですか?」

「被害者の証言についてどうお考えですか!」

警察官に囲まれながら、神崎は頭を深く下げ、言葉を発することなく車へ乗り込んだ。閉められたドアのガラス越しにも、フラッシュはなお絶え間なく焔のように瞬いていた。

車内に乗り込むと、高見が小さく声をかけた。

「まだ戦いはこれからです。ですが、今日から先生はご自宅に戻れる。ご家族とも会えます」

神崎は深く息を吐いた。

「……ありがとう。本当にありがとう」

車は静かに警察署を離れた。


信号を待つ交差点の先には、夜風に揺れる病院の看板がかすかに見えた。

かつて患者を救うために立っていた場所が、いまは彼の人生を裁こうとする証言の舞台になっている――。その事実が、保釈の自由をもなお重く縛っていた。


自宅での再会

午後七時を過ぎ、タクシーは静かな住宅街の一角に止まった。

帰宅したのは、たったひと月なのに何年も離れていたような錯覚を覚える我が家だった。玄関の明かりがぼんやりと灯り、扉が開くと、妻の由美子と、中学生の息子と二人の女の子がそこに立っていた。

「お帰りなさい……」

由美子の声は涙で震え、息子は言葉を詰まらせながら深々と頭を下げた。


神崎は玄関に立ちすくみ、靴も脱がずにしばらくみんなを見つめていた。やがてゆっくりと歩み寄り、妻の手を強く握った。その温もりに、留置場での冷たい夜が一瞬にして溶けるように思えた。

「迷惑ばかりかけて……すまない」

神崎の声はかすれていた。妻は小さく首を振り、「生きて帰ってきてくれて、それで十分よ」と答えた。


苦悩と決意

リビングのソファに腰を下ろし、窓の外を眺めながら神崎は思った。自宅は安息の場であるはずなのに、いまは籠のように外界から切り離されている。テレビからは連日のように自分の事件が報じられ、専門家と称するコメンテーターが無責任に推測を並べ立てている。

「有罪はほぼ確実ではないか」――そんな言葉が電波に乗って流れるたび、胸の奥に鉛の塊が落ちていく。

だが同時に、彼は強く決意していた。

「私はやっていない。このまま沈黙すれば、すべてが虚偽に塗りつぶされてしまう」

夜更け、机に並べられた弁護団からの資料をめくりながら、神崎は静かに拳を握った。

その手には、医師として患者を救ってきた確かな記憶と、いまや自らを救わねばならないという新たな使命が宿っていた。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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