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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
32/65

31. 第一回公判

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

2016年11月30日。霞が関の上空は、どこまでも均一な、鉛色の雲に覆われていた。初冬の冷たい風が、裁判所の敷地に植えられた街路樹の、最後の枯れ葉を容赦なく剥ぎ取っていく。東京地方裁判所の建物は、その灰色の空の下で、周囲の官庁街の景色に溶け込むように、静かに佇んでいた。だが、その内部では、数えきれないほどの人間の運命が、法という名の、極めて無機質なシステムによって裁定されている。


午前9時50分、逮捕から数ヶ月、神崎彰の顔は明らかに痩せ、頬骨が浮き出ていたが、その背筋は、まっすぐに伸びていた。主任弁護人を務める高見は、長身で、いかにも切れ者といった印象の男だった。彼の弁護をするほかの二人は、実務経験豊富な今村と、若手ながら記録の分析能力に長けた三谷。彼ら三人が、神崎を守るための、唯一の盾となる。高見が、神崎の肩にそっと手を置いた。

「いいですか、神崎さん。法廷では、何があっても冷静さを失わないでください。我々が、全て対応します」

その声は、落ち着いていた。だが、その言葉の裏に、これから始まる戦いの熾烈さを、誰もが理解していた。


検察官席には、すでに一人の男が座っていた。担当検事の、伊勢崎だった。彼は、神崎たちが入廷しても、手元の書類から顔を上げることはない。ただ、その存在を黙殺するかのように、自身の準備に没頭していた。その自信に満ちた横顔が、この裁判の行方を、すでに確信しているかのようだった。


神崎と弁護団が被告人席に着席する。やがて、廷内にブザーが鳴り響き、廷吏の「起立」という声が響いた。 全員が立ち上がると、正面の扉から、三人の裁判官が、黒い法服をまとって入廷してきた。中央に大牟田裁判長が座る。白髪の、表情の読めない初老の男だった。彼らは、被告人席にも、検察官席にも、一切の視線を向けることなく、ただ、自らの席に着いた。彼らは、個人の感情を排した、法の代行者という名の、装置なのだ。裁判長が、書記官に目配せをする。 書記官の、抑揚のない声が、静まり返った法廷に響き渡った。

「これより、平成28年公然わいせつ被告事件の、第一回公判を開廷します」

法廷内は、暖房が効いているにもかかわらず、どこか肌寒い空気が澱んでいた。傍聴席は、ほぼ満席だった。その大半を占めるのは、このスキャンダラスな事件の顛末を一行でも多く記事にしようと、鋭い視線を光らせるマスコミ関係者だ。残りの席も、一般の傍聴人や、固唾を飲んで成り行きを見守る医療関係者らしき人々で埋め尽くされている。彼らの好奇と猜疑の視線が、一点に集中していた。被告人席に座る、神崎彰に。検察官席には、伊勢崎検事を筆頭に、二人の若い検事が控えている。その陣容は、検察がこの事件をいかに重要視しているかを、無言のうちに物語っていた。

挿絵(By みてみん)

やがて、裁判長が、感情の乗らない声で開会を宣言した。

「それでは、開廷します」

廷内に、形式的な手続きだけが支配する、独特の緊張が走る。まず、人定質問が始まった。裁判長が、被告人席の神崎に、機械的に問いかける。

「あなたのお名前は?」

「神崎彰です」

神崎の声は、マイクを通して、静まり返った法廷に響いた。その声に、震えはなかった。

「職業は?」

「……医師です」

一瞬の間があった。その沈黙に、彼がその言葉を口にするまでに、どれほどの葛藤があったかが凝縮されているようだった。


人定質問が終わると、裁判長は伊勢崎検事に視線を送った。

「それでは、検察官、起訴状の朗読を」

伊勢崎が、ゆっくりと席を立った。彼は、法廷内の全員に聞こえるよう、明瞭な、しかし抑揚のない声で、手元の起訴状を読み上げ始めた。その声は、これから語られる内容の醜悪さとは裏腹に、どこまでも冷静だった。

「被告人、神崎彰に対する、準強制わいせつ被告事件につき、公訴事実の要旨を朗読します」

傍聴席の空気が、さらに張り詰める。

「被告人は、医師としての地位にありながら、2016年5月10日午後2時55分頃から、同日午後3時12分頃までの間、東京都内の大倉総合病院の病室内において、乳腺腫瘍摘出術の術後で、麻酔等の影響により抗拒不能な状態にあり、ベッドに横たわる女性患者倉科ミカ氏に対し、診察の一環であると誤信させ、その着衣をめくって左乳房を露出させた上、その左乳首を複数回にわたり舐めるなどのわいせつな行為をしたものである」

その、およそ法廷という公の場で口にされることのない、生々しい単語の羅列。それが、国家が神崎彰という人間に突きつけた、「罪状」の全てだった。 傍聴席から、抑えきれない、小さな感嘆とも、嫌悪ともつかない声が漏れた。記者たちのペンが、一斉にメモ帳の上を滑る音が、やけに大きく響く。


神崎は、その間、ただまっすぐに、正面の裁判官だけを見つめていた。彼の表情は、まるで能面のように、一切の感情を殺していた。だが、その固く握りしめられた両の拳だけが、彼の内で荒れ狂う、無念と怒りの大きさを物語っていた。 自分が積み上げてきた医師としての人生が、今、この瞬間、検察官の口から発せられた、わずか百数十文字の文章によって、完全に汚されていく。その冷徹な事実を、彼は、ただ耐え忍ぶことしかできなかった。


起訴状の朗読が終わると、法廷内の空気は、まるで凍りついたかのように静まり返った。裁判長は、その沈黙を破るように、被告人席の神崎に視線を向けた。ここからが、罪状認否。被告人自身の言葉で、罪を認めるか、あるいは否認するかが問われる、裁判の最初の山場だ。

「被告人、神崎彰。ただいま検察官が読み上げた起訴事実について、何か言いたいことはありますか。事実と違う点があれば、述べてください」

神崎は、すっと立ち上がった。彼は、マイクに向かって、はっきりとした、揺るぎのない声で答えた。

「そのような行為は、一切しておりません。私が行ったのは、あくまで術後の経過を確認するための、診療行為の一環です。起訴状にあるような、わいせつな意図は、全くありません」

否認。 その言葉が法廷に響いた瞬間、この裁判が、検察と弁護団による、全面的な事実認定の争いになることが確定した。


続いて、検察官の伊勢崎が、冒頭陳述のために再び立ち上がった。彼は、裁判官席に向かって、これから自らが行う立証の骨子を、冷静に、しかし自信に満ちた口調で述べ始めた。

「検察官が、本件において立証しようとする事実は、以下の三点であります。第一に、被害者である倉科ミカ氏の供述の、極めて高い信用性。第二に、被害者が、被害直後から、知人や警察に対し、一貫した被害相談を行っている経緯。そして第三に、被害者の身体から採取されたガーゼから、被告人のものと一致するDNAが検出されたという、客観的な科学的証拠であります」

その陳述には、一切の無駄がない。証言、状況、物証。有罪を立証するための、完璧な三点セットだ。傍聴席の記者たちが、その三つのキーワードを、一斉にメモに書き留める。


検察側の陳述が終わると、今度は、弁護人席から、主任弁護人の高見が立ち上がった。彼は、伊勢崎とは対照的に、まず法廷全体を見渡してから、静かに語り始めた。

「弁護人として、検察官の主張に反論します。第一に、検察官が主張する立証は、極めて不十分です。被害者の供述は、術後のせん妄状態という、特殊な精神状態におけるものであり、その信用性には重大な疑義があります。第二に、被告人が行った行為は、術後の創部確認という、医学的に正当な診察行為であり、わいせつ性は完全に否定されます。そして第三に、仮に微量のDNAが検出されたとしても、それは診察という正当な接触によって付着した可能性を排除できず、起訴状に記載されたような行為態様を、何ら証明するものではありません」

真っ向からの対立。法廷という名のリングの上で、二つの全く異なる「真実」が、激しく火花を散らした。


双方の冒頭陳述が終わると、裁判長は、事務的に今後の進行を確認した。証拠調べの予定、証人尋問の順番。全てが、定められた手続きに従って、淡々と進められていく。

「では、本日はこれにて閉廷します。次回公判は、12月21日、午前10時より開廷します」

裁判長が、閉廷を告げる木槌を鳴らす。 その瞬間、それまで抑えられていた傍聴席から、大きなざわめきが起こった。報道陣は、出口へと殺到し、次の速報記事のための情報を整理し始める。


神崎は、その喧騒の中で、ただ一人、まっすぐに前を見つめていた。戦いは、まだ始まったばかりだった。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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