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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
31/65

30. 高見法律事務所

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

挿絵(By みてみん)

午後九時を過ぎた東京の街は、すでに湿った夜気に包まれていた。


高見法律事務所は、雑居ビルの三階にあった。表通りの喧騒から一歩入っただけで、ここには妙な静けさが漂っている。古い応接セットと分厚い資料の山が、この場所が日常的に「闘いの場」であることを示していた。


高見は接見を終え、大倉病院事件の資料を抱えて事務所へ戻った。小さなエレベーターを降り、廊下の奥にある一室の扉を開けると、ともに事務所で働く二人の弁護士が、すでに高見を待っていた。ひとりは高見と同年代の今村。五十三歳、落ち着いた物腰に老獪さが漂う。もうひとりは三十四歳の若手、三谷である。机の上にはカルテのコピー、看護師の供述メモ、新聞の切り抜きが散乱している。

「どうでしたか、先生」

三谷が立ち上がり、疲労の色濃い高見の表情を探った。

「……かなり追い詰められていた。伊勢崎検事は自白を迫っていたが、神崎は最後まで否認を貫いたよ」

椅子に腰を落としながら、高見は鞄からメモを取り出した。

今村が腕を組み、深いため息をついた。

「伊勢崎は“人間を折る”のが得意だからな。だが、否認を貫いたのなら第一関門は突破だ。問題は次の公判だ」


三谷が机に散らばる資料を手際よく整理し、ホワイトボードに大きく三つの項目を書き出した。

1.被害者供述の信用性

2.診療行為とわいせつ行為の区別

3.DNA鑑定の限界

「争点はこの三つに絞られると思います」

三谷の声は若さゆえの熱気を帯びていた。

高見は頷き、指先で机を軽く叩いた。

「まず被害者供述だ。倉科ミカが“直後に看護師へ相談した”という事実を検察は大きく利用してくるだろう。ただし、供述の一貫性や心理的要因に切り込める可能性はある」

今村が口を挟んだ。

「それから診療行為。乳房の観察や触診は医学的に必要な場合がある。舐める行為など医療に含まれるわけがない、というのが検察の筋だろうが、実際に“舐めた”という証拠はない。供述と状況証拠だけだ」

三谷はすぐに補足した。

「看護師の相田さんの証言が重要になります。彼女は診察手順を目にしている。次回以降の証人尋問で“医学的手技の範疇”であったことを強調させましょう」

高見は二人の議論を黙って聞いていたが、やがて眼鏡を外し、疲れた目頭を押さえた。

「……最後はDNA鑑定だ。乳首から検出された唾液のDNAが神崎のものと一致した、という検察の主張。これが最大の壁だ」

室内に重苦しい沈黙が落ちた。

「だがDNAは“存在”を示すだけで、行為の態様を立証するものではない。医療行為の最中に付着した可能性もゼロではない。そこをどう突くかだ」と今村が言った。

三谷は資料を見直しながら必死に言葉を探した。

「……もし裁判員裁判なら、証拠の“わかりやすさ”が大きく影響することになるのだが――。だからこそ、医学的常識や検査手順を一般の人にも理解できる形で提示しないと」

高見は二人を見渡し、深く頷いた。

「我々の使命は、先生の“事実”を法廷で形にすることだ。感情論や憶測に飲み込まれてはいけない。――さあ、もう一度証拠を洗い直そう」


時計の針はすでに深夜零時を回っていた。だが三人は誰一人帰ろうとせず、窓の外で遠ざかる救急車のサイレンを背に、静かにペンを走らせ続けた。


次の朝、高見は病院の情報を再確認するために、広瀬医師とナース相田の二人を招く予定になっていた。

「遅れてすみません」

ドアが開き、カジュアルジャケット姿の若い医師・広瀬と、落ち着かない様子のナース・相田が入ってきた。二人とも、どこか緊張した表情を浮かべている。


高見は軽く頷くだけで、席を示した。

「まあ座ってください。……これからの戦い方を決めましょう」

沈黙を破ったのは広瀬だった。

「先生、僕は神崎先生がそんなことをするはずがないと、心の底から信じています。手術中も、術後も、先生の患者への態度は誠実でした。僕はそれを見てきたんです」

その声には若さゆえの直情がにじんでいた。高見は口角をわずかに上げる。

「あなたの信念は心強い。ただ、裁判というのは“信じる”だけでは勝てない。証拠と理屈、それが武器になります」


相田は小さく息を呑んだ。

「でも、患者さんが“触られた”と証言しているんですよね。私たち看護師はその場にいませんでしたから、どうしても不利に思えてしまって……」

高見は視線を彼女に向けた。

「そこが検察の狙いです。証言に一貫性があるように見せかけ、裁判官の心に“疑念”を植え付ける。しかし私たちは、医学的な事実と状況証拠で、その供述に“揺らぎ”を与えなければならない」

広瀬が身を乗り出した。

「じゃあ、具体的には?」

高見は机上のファイルを開き、赤い付箋を貼った部分を示した。

「第一は、被害者が“せん妄状態”だった可能性。手術直後の混乱は医学的に十分にあり得る。第二は、警察が収集したDNA鑑定。保全手続きに重大な瑕疵があると我々は睨んでいます。――これを突く」

相田は心配そうに眉を寄せた。

「でも、私たちにできることなんて……」

高見は首を振った。

「あなた方にしかできないことがある。現場を知る人間の“言葉”です。手術室の様子、神崎医師の普段の態度、患者への接し方。それを正確に、落ち着いて法廷で語ってほしい。」

広瀬は力強く頷いた。

「わかりました。僕は必ず、先生の無実を支えます」

相田はしばらく黙っていたが、やがて決意したように言った。

「……はい。私も証言します。現場で見てきたことを、ありのままに」

高見は二人を見回し、静かにグラスの水を口にした。

「いいでしょう。戦いは始まったばかりです。勝つためには、冷静さを失わないこと。感情ではなく、事実を武器にする。それを忘れないでください」

窓の外では、都会の夜が濃くなり始めていた。街の灯りがぼんやりと滲み、彼らの胸にこれからの長い闘いの予感を投げかけていた。


応接室の空気は、緊張と期待とが入り交じった独特の重さを帯びていた。広瀬と相田は、抱えきれないほどのファイルや封筒を机の上に並べた。カルテのコピー、看護記録、当直簿、そして事件当日の病棟でのメモ。どれも、医療者としての自負と責任感が詰まった紙束だった。弁護士・高見は姿勢を正し、無言のままページを繰った。指先で紙を押さえながら、眉間にうっすらと皺を寄せる。目を走らせる速度は速いのに、内容を確実に刻み込んでいることは傍らの誰にでも分かった。彼の背後から、今村と三谷が覗き込んでいた。

「……これは」

高見がゆっくりと口を開いた。

「大変よくまとめられていますね。事件の流れ、現場の動き、患者の記録。無駄がなく、要点が整理されている。ここまで整っていれば、裁判所に対しても説得力を持つでしょう」

広瀬が、緊張で固まっていた肩をようやく落とした。

「先生方のお役に立てるなら……必死で思い出しながらまとめました」

相田も、うなずきながら言葉を添えた。

「現場にいた者として、少しでも事実を伝えたい。それだけなんです」

今村が低い声で感想を洩らした。

「医師や看護師がここまで詳細に記録を追えるとは。普通は、法律家が資料に埋もれて取捨選択するものだが……。これは力になる」

三谷は興奮を隠さず、紙束に目を輝かせた。

「まるで現場をそのまま切り取ったようです。証言と照らし合わせれば、検察のストーリーに綻びを作れます」

高見は二人の言葉を黙って聞き、深く息を吐いた。


そして、広瀬と相田に視線を戻す。

「ありがとうございます。あなた方の努力は必ず利用させていただきます。――いや、違うな。これは“利用”という言葉より、“共に戦う武器”と言った方がふさわしい」

その言葉に、広瀬と相田の胸にはわずかながらも安堵の色が広がった。


事務所の窓の外では、冬の夕暮れが濃く落ち始めていた。これからの長い闘いを予感させる薄暗さが、部屋の中にゆっくりと染み込んでいった。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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