29. 取り調べ
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
翌朝。
鉄の扉が開き、神崎は看守に促されて、冷たい灰色の廊下を歩かされた。足音がコツコツと響き、その先に待つ取調室の扉がやけに重く見える。中に入ると、蛍光灯の光に白く照らされた机が一つ。その向こうに座っていたのは、伊勢崎検事だった。
グレーのスーツに、整えられた髪。眉間にわずかなしわを寄せ、冷たい目でこちらを見据えている。その視線に、神崎は背筋を無意識に伸ばした。
「被告人、いや……神崎彰さん」
伊勢崎は書類を指先で軽く叩きながら、低い声で切り出した。
「あなたはここにいる理由を理解しているはずだ」
「理解していることと、納得していることは違います」
神崎はかすかに震える声を押し殺し、言葉を返した。
伊勢崎は片眉を上げる。
「否認を続けるつもりか。だが被害者の供述は一貫している。さらにDNA鑑定の結果もある。どう言い逃れする?」
机の上の分厚いファイルが、伊勢崎の手で押し出される。その表紙に書かれた「鑑定書」の文字が、神崎の目に突き刺さった。
「……私は診察をしただけです。患者を安心させるために胸部を診た。それ以上でも、それ以下でもない」
「診察だと?」伊勢崎は鼻で笑った。
「ではなぜ、患者は泣きながら看護師に訴えた? なぜ警察に直ちに相談した? 合理的な説明ができるのか」
神崎は言葉を探した。だが、被害者の心情までは分からない。ただ、自分がしたことは医師として当然の行為だったという確信だけが残っている。沈黙が落ちる。その沈黙を破ったのは、伊勢崎の乾いた声だった。
「あなたは自分の立場が分かっていない。黙り込むことがどれほど不利になるか……弁護士からは教わっていないのか」
挑発めいた言葉。神崎の胸に怒りと恐怖が同時に湧き上がる。
「私は……嘘はついていません」
やっとの思いで口にした声は、震えていた。伊勢崎は冷ややかにうなずき、記録用紙に短くメモを走らせる。
「いいだろう。あなたの否認が裁判でどう響くか、見ものだな」
その一言に、取調室の空気はさらに重く沈んだ。
神崎は視界がかすむような疲労を覚えた。しかし――心のどこかで、昨日の高見弁護士の言葉がかすかに蘇っていた。
「真実を語り続ける限り、必ず守ります」
取調室 ― 自白の圧力。時計の針が午前十時を指していた。取調室の窓のない空間に、時間の感覚はすぐに狂わされる。神崎は椅子に深く腰を下ろし、両手を膝に置いたまま視線を落としていた。
伊勢崎検事は机の向こう側で椅子を引き、身を乗り出すようにして口を開いた。
「神崎さん。あなたがやったことは、もうほとんど明らかになっているんだ」
机の上には、被害者の供述調書、DNA鑑定の写し、そして看護師の証言書が無造作に並べられている。
伊勢崎はそれらを一つ一つ指先で叩きながら、言葉を重ねた。
「被害者は泣きながら看護師に訴えた。証言は一貫している。鑑定結果もある。――それでもまだ否認を続けるつもりか?」
神崎は口を開きかけたが、言葉が喉につかえた。否認を繰り返せば繰り返すほど、この男は圧力を強めるだろう。そんな予感がしていた。伊勢崎は椅子の背を蹴るように押しやり、声を低くした。
「いいか。裁判になれば、被害者はまた法廷で証言する。その場であの涙を見た裁判官が、誰を信じると思う?」
机の上で手を組み、しばらく神崎の顔を凝視したあと、さらに畳みかける。
「今、正直に話せば情状酌量の余地は残る。だが最後まで意地を張れば――あなたは医師としての人生どころか、人間としての信頼も失う。家族も、同僚も、誰も守れないぞ」
その言葉は、刃物より鋭く胸を刺した。神崎は思わず両手を握り締めた。頭に浮かんだのは、病院で取り乱す患者の姿ではなく、広瀬や相田の必死の顔、そして何も知らずに暮らす家族の姿だった。
伊勢崎の声がさらに低く、耳元に迫るように響く。
「――やったと認めればいい。すべてが楽になる」
取調室の空気は重く、息をすることさえ苦しかった。神崎は唇を強く噛み、わずかに震える声で答えた。
「……私は、やっていません」
その瞬間、伊勢崎の目に一瞬、冷ややかな光が走った。
「強情だな」
机に置かれたボールペンが、カチリと音を立てた。それは単なる筆記具の音にすぎないのに、神崎にはまるで判決の鐘のように響いた。
神崎の否認の言葉が空気に溶けると、伊勢崎は一拍置いて笑った。しかしその笑いには温度がなかった。冷たい鉄片のこすれるような音色で、神崎の胸をざらつかせた。
「……まだ言うか。やっていないと」
伊勢崎はゆっくりと椅子から立ち上がり、神崎の背後に回った。
「あなたは頭がいい医者のはずだ。なのに、どうして現実が見えない?」
耳元で吐息のようにささやかれる声に、背筋が凍りつく。伊勢崎は机の上のファイルを掴み、神崎の目の前に叩きつけた。
「ここにあるのは、被害者の供述、看護師の証言、DNA鑑定。世間から見れば、どれもが揃った完璧な証拠だ。――あんた一人の否認で、これを覆せると思うのか?」
ファイルの端が机に跳ねて乾いた音を立てた。神崎は視線を落としたまま、呼吸を整える。心臓の鼓動がやけに大きく耳に響いた。
「君の病院の同僚も、黙っていると思うか?」
伊勢崎は机に両手を置き、身を乗り出した。
「人間は保身に走る。患者を守るため、病院を守るため――君を切り捨てる。それが現実だ」
神崎の脳裏に、広瀬や相田の顔が浮かんだ。必死に自分を信じてくれる彼らの姿が、検事の言葉と衝突して胸をえぐる。
「家族のことも考えたのか?」
伊勢崎の声はさらに低く、冷ややかだった。
「新聞の一面に載るのは時間の問題だ。医師が患者にわいせつ行為。子どもが学校でどう見られるか、奥さんが近所でどう扱われるか――想像できるだろう?」
神崎の呼吸が浅くなった。拳を握る手に力が入りすぎて、関節が白く浮かび上がる。それでも、唇はわずかに動いた。
「……私は、やっていません」
伊勢崎は顔をしかめ、長い沈黙を置いたあと、椅子に戻った。
「強情だな」
低く呟く声には苛立ちと同時に、狩人が獲物を追い詰める時の愉悦が滲んでいた。取調室の蛍光灯がじりじりと唸り、白い光が神崎の影を机に貼りつけた。その影は揺れもせず、ただ静かに、彼の沈黙を映していた。
接見室
鉄製の扉がきしむ音を立てて開き、刑務官に促されるまま神崎は接見室に入った。
狭い部屋には冷たい蛍光灯が灯り、真ん中の長机を挟んで椅子が二脚向かい合っている。その一つに、既に弁護士・高見が座っていた。
「先生……」
神崎の声は掠れていた。高見はすぐに立ち上がり、深く頭を下げたあと、神崎を椅子に座らせた。
「お疲れさまでした。相当やられたようですね」
眼鏡の奥から向けられる視線は厳しさを帯びていたが、その底には確かな温かさがあった。神崎は椅子に腰を落とすと、重さに耐えきれなくなったかのように背を丸め、両手で顔を覆った。
「……もう、何を言っても無駄なんじゃないかと。伊勢崎検事は……まるで全部決めつけているようだった。私は“やっていない”と何度も言ったのに、家族のことまで持ち出されて……」
声が震え、喉の奥で言葉が詰まる。留置場の冷たい独房で一晩過ごした疲労と、今日の尋問の圧力が、彼の精神をじわじわと蝕んでいた。高見は机の上に置かれた手帳を閉じ、両肘を机に乗せて身を乗り出した。
「検事は必ずそう仕向けます。心理的に揺さぶりをかけ、自白を引き出そうとするのが彼らの常套手段です。でも、先生が否認を続けたことは正しい。そこに一分の迷いもなかったことが、私には伝わってきました」
神崎は顔を上げた。目の下には深い隈ができ、光を失いかけていたが、高見の言葉を受け止めると、わずかに潤んだ。
「……私は、医師として患者を守るべき人間です。なのに、こんな……」
「大丈夫です」
高見は断言した。
「我々には病院のカルテ、副医師や看護師の証言、記録がある。DNA鑑定だって、立証に足りないことを突きます。事実を曲げない限り、先生に勝ち目はあります」
沈黙が訪れた。神崎は机の木目をじっと見つめ、やがて小さく頷いた。
「……信じます。どうか、私を……私の真実を、守ってください」
高見はその言葉を静かに受け止め、深く頷いた。
「必ず守ります」
接見室の外で、刑務官の靴音が近づいてきた。残された時間は少ない。それでも、わずかな会話の中で、神崎の心には再び微かな灯がともりつつあった。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




