27. 逮捕
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
午後の外来診察が一段落し、神崎彰は白衣の袖を軽く押さえながら廊下を歩いていた。病院独特の消毒液の匂いがまだ鼻腔に残る。ナースステーションからは看護師たちの小声のやり取りが聞こえ、病室前では患者家族が静かに面会の順番を待っていた。いつもと変わらぬ、日常の風景――のはずだった。その時、廊下の角から二人の男が姿を現した。黒いスーツに身を包み、胸元に小さなバッジを光らせている。医療関係者ではないことは一目でわかった。
彼らの視線は迷いなく神崎に向けられていた。
「神崎彰さんですね」
低い声が廊下に落ちた。周囲にいた看護師や患者が、一瞬だけ動きを止めた。
神崎は立ち止まり、軽く眉をひそめた。医療相談か何かかと思った。しかし、男の手には一枚の紙片が握られていた。
「東京地方裁判所発付の逮捕状です」
その言葉を聞いた瞬間、病院の空気がひやりと変わった。看護師の一人が慌てて視線をそらし、廊下にいた患者家族が小声で囁き合う。刑事の一人は、周囲に聞こえぬよう声を抑えながらも、確実に告げた。
「あなたを強制わいせつの疑いで逮捕します」
神崎の胸に重い鉛が落ちたような感覚が走った。耳の奥で自分の心音が不自然に大きく響く。反射的に口を開きかけたが、何を言えばいいのかわからない。
「……そんな馬鹿な」
かろうじて声になったのは、それだけだった。
刑事は続けて淡々と告知する。
「黙秘権があります。弁護人を依頼する権利もあります。あなたの供述は証拠として用いられる可能性があります」
定型の文言が冷たく並べられていく。神崎はただ立ち尽くし、遠くからナースコールのベル音が聞こえているのをぼんやりと意識していた。その音だけが、彼をかろうじて現実につなぎとめていた。刑事が一歩踏み出し、彼の腕を軽く押さえる。周囲に悟られぬよう、手錠はまだ見せない。だが、そのわずかな力の重みが、すでに彼の自由を奪っていた。
廊下の片隅で、二人の刑事と一人の医師が静かに立ち尽くす。日常の中にぽっかりと穿たれた異物のように、その光景は異様に浮かび上がっていた。刑事の手に軽く腕を押さえられながら、神崎は歩き出した。廊下の蛍光灯が、いつもより白々しく感じられる。
広瀬医師がナースステーションの端に立っていた。まだ三十代半ば、神崎を尊敬し、師として仰いできた若い医師だ。彼の顔色が一瞬で蒼ざめる。
「先生……」
と声をかけかけたが、喉の奥で言葉が崩れた。刑事の厳しい目がその一歩を封じた。その隣にいた看護師の相田は、白衣の胸ポケットにメモ帳を押し込んだまま固まっていた。神崎にいつも厳しくも温かい指導を受けてきた彼女の目に、信じられない光景が映っていた。涙は出ない。ただ、目の奥に焼き付くような衝撃だけが広がる。
ナースステーションの奥からは、病院長と師長が顔をのぞかせていた。病院長は「なぜここで」と小声でつぶやいた。師長は何も言わない。だが視線の奥に潜むのは明らかに“病院の名誉”への不安だった。人としての同情よりも、行政と病院経営への波及を計算する冷たい眼差しだった。神崎はその視線を受けながら、胸の奥に針を刺されたような痛みを覚えた。無実を叫びたい衝動が喉まで込み上げたが、刑事の手の重みと周囲の沈黙がその声を飲み込んだ。
自動ドアが開くと、外の蒸し暑い8月の空気が流れ込んだ。病院の玄関前にはすでに一台の警察車両が停まっている。白と黒の車体、赤色灯は点灯していないが、その存在だけで周囲を圧倒していた。通りかかった見舞客が立ち止まり、低く囁き合う。
「誰か逮捕されたらしい」「あれ、神崎先生じゃないか」
視線が一斉に集中し、神崎の背中に突き刺さる。刑事が助手席のドアを開けた。
「こちらへ」
神崎は一歩踏み出す。その瞬間、背後から広瀬の声がかすかに届いた。
「先生……信じています」
振り返りたかった。しかし刑事の手が彼の肩を制し、視線だけが揺らめく。声の主を見られないまま、彼は車内へと押し込まれた。ドアが閉じられると、外のざわめきは一瞬にして遠ざかる。窓越しに広瀬と相田の姿が滲んで見えた。二人の顔は悔しさと戸惑いに染まっていた。エンジンがかかり、車両はゆっくりと病院を離れる。
神崎はシートに背を押しつけながら、胸の奥でただひとつの言葉を繰り返していた。――なぜ、こんなことに。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




