25. 歪められたデータ
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
翌日、黒木は再び科捜研の法医科にいた。
「黒木さん、勘弁してください。こんな出所の不明な、証拠の連続性が担保されていないモノ、鑑定に回せるわけがないでしょう」
研究員の男――林は、黒木がデスクに置いたジップロック入りのコットンを見て、懇願するように言った。その顔は、明らかに狼狽していた。
「これは、俺が正規の手順で任意提出を受けた、参考資料だ。…いいから、やれ」
黒木の口調は、有無を言わせない。
「しかし!」
「林さん」
黒木は、林の反論を遮ると、その肩に手を置き、耳元で囁いた。その声は、蛇のように冷たく、粘りついていた。
「君は先日、新宿にいたね。何をしに行ったんだ?」
林の顔から、さっと血の気が引いた。彼は、黒木の顔を直視できず、視線を泳がせる。
「君がある雑居ビルに入っていくのを、うちの者が確認しているんだがね。実はあのビルでは、違法なカジノの賭博場が開かれている、という情報が入っているんだよ。…うん?」
ごくり、と林が唾を飲む音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。 黒木は、にやりと笑うと、すぐにその表情を消した。
「まあいい、話はそれだけだ。とにかく、この検体の検査、くれぐれもよろしく頼むよ」
彼は、まるで世間話でもしていたかのように、あっさりと話題を切り替え、部屋を出て行こうとした。
林の顔色は、土気色に変わっていた。黒木は、彼の弱みを、正確に握っていたのだ。ドアノブに手をかけた黒木は、思い出したように振り返った。
「ああ、そうだ。アミラーゼと、神崎のDNA。期待しているよ」
その言葉は、懇願でも、依頼でもなかった。 捏造してでも、俺が望む結果を出せ。 ドアが閉まり、一人残された部屋で、林は、両肘を机につき、がっくりと頭を抱えた。
翌日、林は、黒木が置いていったジップロック入りのコットンを前に、深く、重い息を吐いた。もう、後戻りはできない。彼は、自身の良心に蓋をすると、鑑定作業を開始した。
まず、ルーチン業務として、証拠品であるコットンの写真をあらゆる角度から撮影する。次に、滅菌されたハサミでそれを半分に切り、一つを検査用、残りを再鑑定のための保存用とした。その後の手技は、先日行ったガーゼの鑑定と、全く同じプロセスだ。DNA抽出、アミラーゼ反応、そしてPCR法によるDNA増幅。全ての作業を、彼は機械のように、感情を排してこなしていった。
数時間後、分析装置が、最終的な結果を弾き出した。林は、モニターに表示されたデータを見て、静かに頷いた。 アミラーゼ反応、陽性。 そして、検出されたDNAの塩基配列は、量は少ないものの、先日採取した神崎彰のそれと、完全に一致していた。
林は、その結果を、定められたフォーマットの報告書に打ち込むと、内線電話で万田署の黒木を呼び出した。事実だけを、淡々と告げる。電話の向こうで、黒木が息を呑む気配が伝わってきた。そして、弾んだ声で、
「すぐに、そちらへ受け取りに行く」と言った。
三十分後、黒木は、それまでに見せたことのないような、満面の笑みを浮かべて林の研究室に現れた。
「やあ、林君」
彼は、まるで旧知の友人にでも会ったかのように、気さくな口調で言った。
「よくやってくれた。感謝するよ」
そう言うと、黒木は、林の肩を、ポンと力強く叩いた。そして、デスクの上に置かれていた検査報告書のファイルを手にする。彼は、それを勝利の証のように軽く振り上げると、ドアに向かいながら、思い出したように言った。
「ああ、それから、例の新宿の件は、心配しなくていいからね」
その言葉の意味を、林は正確に理解した。これは、取引なのだ。 黒木は、それだけ言うと、満足げな表情のまま、部屋を出て行こうとしたが、すぐ締めかかったドアを再び開けて、
「ところで、再検用のガーゼだが、もちろん今回使ったものが証拠品になるからな。最初の物は破棄しておくように」とドアを閉めながら去った。
一人残された林は、自分が今しがた加担した、科学の名を借りた「物語」の共犯者になったという重い事実を、ただ噛み締め続けていた。これまで20年以上続けてきた科捜研の仕事、それは自分が科学者の一人であるという自負だった。それが、大きく崩れてしまったのだ。確かに身から出た錆とは言え、浅はかな自分の行動、違法カジノに行ったこと、誰のせいでもない、自分がしでかした過ちであることはわかっている。それにしても真実を追求する科学がこんな形で歪められてもいいものだろうか。林の心の葛藤は言えることはないだろう。
黒木が去った後も、林はその場から動けなかった。部屋には、薬品と、そして自身の敗北の匂いが満ちている。彼は、ゆっくりと自分のデスクに戻ると、今しがた行った検査の記録ノートを見返した。
そこに記されているのは、彼がこれまで二十年間、科学者として積み上げてきた仕事とは、似て非なる何かだった。いや、全くの別物だ。検査のプロセスは、どうでもよかった。ただ、黒木が望む「結果」という名の数値に、無理やり帳尻を合わせただけだ。
本来であれば、ゲル電気泳動の結果は写真に撮って記録し、DNA量を定量するための検量曲線を作成し、全ての生データを、再検証が可能な形で保存しておかなければならない。それは、科学的な正しさを担保するための、最低限の、そして絶対のルールだ。しかし、今回の鑑定で、林はそれら全てを意図的に省略し、廃棄してしまったのた。後から誰も、この結果の正当性を検証できないように。
黒木という男。善も、正義も、真実の探求も、あの男にとっては無縁なのだろう。あるのは、ただ、自身の出世と目的達成への、剥き出しの欲望だけだ。そんな男に、科学者としての魂を売り渡し、屈しなければならなかった。その無念さが、胃の腑に鉛のように重く沈んでいく。
全てが、嫌になった。 毎日、黙々とデータを積み重ね、客観的な事実だけを追い求めてきたこの仕事が、これほど脆く、権力という名の暴力の前に無力であるとは。林は、電気の消えた分析装置の、黒い画面に映る自分の顔を、ただぼんやりと見つめていた。証拠は全て消した。そこに映っていたのは、科学者のふりをした自分だ。それで生きて行けばよいのだ。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




