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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
23/65

22. 神崎医師の事情聴取

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

部屋は、色を失っていた。 壁も、長机も、パイプ椅子も、全てが均一なグレー。窓にはブラインドが下ろされ、蛍光灯の白々とした光が、机に置かれた神崎の手の甲を無機質に照らし出している。ここは万田警察署の一室、取調室と呼ばれる空間だ。白衣もスクラブも脱ぎ捨てた神崎は、着慣れない私服のまま、刑事と向かい合っていた。


男は、黒木と名乗った。所轄の刑事課の人間だという。分厚い胸板と、短く刈り込んだ髪が、彼の職務を雄弁に物語っていた。

「神崎先生、お忙しいところ申し訳ない」

黒木は、A4のコピー用紙が雑に挟まれたファイルを、音を立てて机に置いた。

「先日、倉科ミカさんという女性から、被害の相談がありましてね。先生の患者さんだそうですが、いくつか、確認させていただきたいことがある」

その口調は丁寧だったが、目は笑っていなかった。まっすぐに神崎の目を見据え、その奥にある動揺や嘘を探ろうとする、捕食者の目だ。

挿絵(By みてみん)

「倉科さんの件で、…私が?」

神崎の声が、かすかに震えた。その名を聞いた瞬間、彼の脳裏を数日前の病棟の光景がよぎる。術後、麻酔の影響でせん妄状態に陥り、錯乱した言動を繰り返していた彼女の姿が。私から性的被害を受けたなどと、ありえもしない妄想を口にし、看護師たちと顔を見合わせた、あの時の記憶が。 ――何か悪い方に発展しやしないか。 あの時抱いた一抹の不安が、今、最悪の形で現実になったのだ。この刑事は、あの妄想を根拠に、自分を加害者に仕立て上げようとしている。


「ええ。彼女の訴えによりますと…」

黒木は手元の資料に一度目を落とし、再び顔を上げた。

「手術前の診察の際、先生から不必要な身体的接触を受け、精神的苦痛を感じたと。…単刀直入にお聞きしますが、先生、倉科さんの体に、診察の範疇を超えて触れたという事実はありますか?」

「ありません」

神崎の声は、決然としていた。だが、それは怒りというより、必死の防御だった。

「刑事さん、それは彼女の妄想です。術後せん妄による…」

「先生」

黒木は、神崎の言葉を冷たく遮った。

「我々は今、医学的な見解を聞いているのではありません。被害の訴えがあったという『事実』について、あなたに尋ねているんです」

その言葉に、神崎は唇を噛んだ。通用しない。医学的な常識は、このグレーの部屋では意味をなさないのだ。

「…診察は、常に女性看護師を同席させ、手順通りに行いました。それだけです」

「なるほど、看護師の同席はあった、と」

黒田は、神崎の焦りを意にも介さず、ボールペンで手元の紙に何かを書き込んだ。


「では、先生。診察中、倉科さんにどのような言葉をかけましたか?」

「…術後のサポート体制について、確認はしました。ご家族とは少し距離があると聞いていましたから」 神崎は、混乱する頭で必死に記憶をたどった。

「支えてくれる人、ですか」

黒田は、ボールペンの先で机をコツ、と軽く叩いた。その乾いた音が、神崎の鼓膜を不気味に揺らす。 「倉科さんの話では、先生は**『君を一人にはしない』『医者と患者である前に、男と女だ』**、そういった趣旨の発言をされた、と証言していますが」


部屋の空気が、凍りついた。 神崎は、息をすることさえ忘れた。病棟で聞いた妄想よりも、さらに具体的で、悪意に満ちた言葉。彼女の混乱した頭の中で、自分の言葉が、ここまでおぞましく変換されてしまったというのか。 頭が真っ白になり、目の前がぐらりと揺れた。

「…刑事さん」

かろうじて絞り出した声は、自分のものではないように、弱々しく響いた。

「私は…彼女が社会的に孤立していることを案じて、『主治医として、医療チームが支えるから、一人で抱え込まないでほしい』と…。そう、伝えました。それだけです…」

「ほう」

「なぜ…なぜ、そんな嘘を…。いや、嘘ではない…彼女には、本当にそう聞こえてしまったんだ…せん妄のせいで…」

もはや、それは刑事への反論ではなかった。誰にともなく問いかける、混乱と絶望から生まれた、ただの独り言だった。


神崎は、手術室でメスを握っていた時のような、一切の妥協を許さない外科医の目ではなかった。 医学では制御できない人の心の不可解さに直面し、理解不能な虚言の前に、ただ呆然と立ち尽くす、一人の弱い人間の目をしていた。


黒田は、精神的に崩壊寸前の神崎を、値踏みするように見つめていた。そして、ふ、と初めて口元を緩めた。それは、獲物の弱点を見つけ出した、冷たい笑みだった。

「なるほど、先生の言い分はよく分かりました。では、これはどう説明しますか?」


殺風景な取調室の、冷たい空気が肌を刺す。刑事の黒木は、テーブルの上に置かれた資料に一度目を落としてから、顔を上げた。

「先生は、倉科ミカさんが術後に病室へ戻られた後、二度、診察に入られていますね」

黒木は、事実確認から入った。

「我々の記録によれば、最初が十五時前。そして二度目が、十七時きっかりですが、間違いありませんか」

その目は、神崎の表情から、わずかな動揺も見逃すまいと、じっと彼を射抜いていた。

「はい。そのはずです」

神崎は、記憶をたどりながら、冷静に答えた。

「では、お訊きしますが、この時、あなたは具体的に何をされたのですか」

黒木は、まるで何かを確信しているかのように、探るような口調で続けた。

「乳腺の腫瘍摘出術の術後ですから、創部の状態を確認するのは、執刀医として当然の務めです。出血や血腫がないか、ガーゼの上から視認と触診で確認しました。特に異常はありませんでした。それだけです」

神崎は、あくまで医学的なプロトコルを説明するように、落ち着いて答えた。

「そうですか」

黒木は、口元に、わずかな笑みのようなものを浮かべた。

「倉科ミカさんの証言とは、若干、異なっているようですね、先生」

「……どこがですか?」

「倉科さんの証言によれば、あなたは、病衣の右と左の襟を大きく広げ、ガーゼのついていない健常な左側の乳房を、何度も舐めた、と。時間にして、五分ぐらいだったそうですね」

黒木は、一切の感情を排した声で、淡々と告発内容を読み上げた。その視線は、獲物を睨めつけるように、神崎に固定されている。


神崎は、その言葉に、一瞬、絶句した。その馬鹿げた訴えが、噂のレベルではなく、こうして刑事の口から、正式な証言として語られたことに、彼は愕然としたのだ。

「そんな、ばかげた話が、本気で捜査の対象になっているのですか」

神崎の声に、それまでの冷静さは消えていた。

「倉科さんは、あの時、術後の痛み止めと、麻酔の影響で、意識が朦朧としていた。せん妄状態だったんです。その状態の患者が、ありもしない妄想を口にすることは、医療現場では決して珍しいことではない。それを、実際に起こった事実として取り上げるのは、まったく、荒唐無稽な話です。一体、誰がそんなことを信じるんですか。私は、これまで何百例と乳腺の手術をしてきましたが、そのようなことは、ただの一度もありません」


語気を強めて反論する神崎を、黒木は、ただ無表情に見つめ続けていた。神崎の主張が、論理的にも、医学的にも正しいことなど、彼にはどうでもよかった。重要なのは、被害者がそう証言し、物証とされるものがある、という事実だけだった。


黒木は、神崎の激昂した様子にも全く動じることなく、手元の資料に視線を落としたまま続けた。

「倉科ミカさんは、さらにおっしゃっています。二度目に先生が彼女を診察した、十七時頃のことです。その時あなたは、彼女が眠るベッドの左側に立ち、再び、健常な左の乳房を舐めた、と」

「ちょっと待ってください!」

神崎は、思わず黒木の話を遮った。

「また、ですか。またしても、そのようなことを言ったというのですか」

「私が話しています。落ち着いてください」

黒木は、冷たく神崎を制止すると、一切の間を置かずに続けた。その声は、もはや何の感情も含まない、事実を読み上げるだけの無機質な音声と化していた。

「あなたは、乳房を舐めながら、もう片方の手をズボンの中に入れ、自慰行為をした。つまり、マスターベーションをやった、と証言されています」


神崎は、言葉を失った。こんな馬鹿げた話があるのか、と、まるで助けを求めるかのように、取調室の、染みの浮いた天井を見上げた。

「……いい加減にしてほしい。そんな作り話を、一体誰が信じるというのですか。何度も言いますが、倉科ミカさんは、せん妄状態だったのです。だから、ありもしない幻覚を見てしまう。それは、病的な状態なんです。正常な人間の証言能力はない!」


神崎の、もはや悲鳴に近い訴えに対し、黒木は、ようやく顔を上げた。そして、その口元に、絶対的な自信を湛えた、薄い笑みを浮かべた。

「とにかく、彼女の描写は、非常に具体的で、真実味がある。ですから、我々警察としても、信じたいわけですよ」

その言葉は、神崎に、絶望的な事実を突きつけた。この刑事は、真実を求めているのではない。彼が求めているのは、検察を動かし、裁判官を納得させることができる、「物語」なのだ。そして、その物語の信憑性は、客観的な事実よりも、被害者の証言の「真実味」によって、担保される。神崎は、自分が、法という名の下に、極めて不条理な罠へと、嵌められようとしていることを、はっきりと悟った。


神崎が退室し、取調室の重いドアが閉まると、部屋には完全な静寂が戻った。黒木は、しばらくの間、神崎が座っていた空の椅子を、感情の読めない目で見つめていた。 「さて、これで立件できるかだ」 彼は、誰に言うでもなく、そう呟いた。


倉科ミカが証言した二度目の犯行、つまり自慰行為を伴うという部分は、確かに神崎が言うように、飛躍しすぎている感は否めない。検察が、この点に躊躇する可能性は十分にあった。 だが、と黒木は考える。倉科ミカの話は、細部に至るまで、実に迫真の内容だった。被害者としての恐怖と屈辱が、真に迫って伝わってくる。うまくいけば、彼女の証言の力だけで、裁判官や陪審員の心証を、こちら側に引き寄せることも可能かもしれない。問題は、証拠だ。 結局のところ、全てはその一点に行き着く。彼女の証言を裏付ける、客観的で、動かしがたい物証。それさえ手に入れば、この事件は確実に「起訴」へと持ち込める。


黒木の思考が、一点に収束した。 倉科ミカが、自身の胸から唾液を拭き取ったという、あのガーゼだ。 あれを科捜研に回し、付着した唾液のDNAが、神崎彰のものと完全に一致するという鑑定結果が出れば、状況は一変する。神崎が主張する「せん妄による妄想」という弁解は、その瞬間に、科学的根拠を失うのだ。


完璧なストーリーが、黒木の頭の中に描かれていた。術後の無防備な患者、信頼を裏切ったエリート医師、そして涙ながらの被害証言と、それを裏付けるDNA鑑定。これ以上ないほど、シンプルで、強力な構図だ。たとえ、そのストーリーを完成させるために、多少の歪曲や、事実の誇張が必要になったとしても、それは許容される。これまでも、似たような手段で、彼はいくつもの「事件」を勝ち取ってきたのだ。正義とは、時として、作り上げるものであることを、黒木は経験則として知っていた。


彼の目に、鈍く、しかし確信に満ちた光が宿った。進むべき道は、はっきりと見えている。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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