20. 神崎先生を救おう
ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。
現役医師による小説は面白いか?
神崎彰自身にしてみれば、それはまさに寝耳に水、という以外に表現のしようがない状況だった。ある日突然、自分が執刀した患者から「手術後にわいせつ行為を受けた」という、事実無根の告発がなされたのだ。警察からの事情聴取の要請。そして、あっという間に嗅ぎつけたマスコミからの執拗な取材攻勢。彼の日常は、わずか数日で、全く別の様相を呈していた。
法的に見れば、彼の立場はまだ「被疑者」ですらない。あくまで参考人としての聴取であり、起訴されたわけでも、ましてや逮捕されているわけでもなかった。病院の就業規則には、この段階で職員を強制的に休ませる明確な条項はない。理論上は、彼が白衣を着て、これまで通り勤務を続けても、何ら問題はないはずだった。しかし、現実は異なる。
彼が臨床業務を遂行することは、事実上、不可能であった。その理由は、誰に指摘されるまでもなく自明のことだった。外科医、とりわけ乳腺外科医という職業は、法的な有罪・無罪の判断とは別の次元で、患者との絶対的な信頼関係の上に成り立っている。身体を預けるという、究極の信頼だ。その医師に、性的暴行の嫌疑がかけられた。その事実だけで、信頼関係を構築するための土台は、根底から崩れ去る。今後、どの患者が、安心して彼に身を委ねることができるだろうか。
病院という組織の観点から見ても、結論は同じだった。万が一、神崎の診察や手術を許可した後に、第二、第三のトラブルが発生すれば、たとえそれが無関係なものであっても、病院の管理責任が問われることは必至だ。リスクマネジメントの観点から、彼を現場に立たせ続けるという選択肢は、あり得なかった。
それは、懲罰ではない。組織が生き残るための、冷徹で合理的な自己防衛措置だ。結果として、神崎は病院から「自宅にて待機するように」という、事実上の出勤停止命令を受けざるを得なかった。それは、彼の外科医としてのキャリアが、完全に停止した瞬間を意味していた。神崎自身、そのロジックを痛いほど理解していた。だからこそ、彼は誰を責めることもできず、ただ自宅で、過ぎていく時間の中に閉じ込められるしかなかった。神の手とまで呼ばれたその両手は、今や何の価値も生み出さず、ただ無為に、膝の上に置かれているだけだった。
神崎彰という病院の中心的モーターが停止したことで、大倉総合病院という精密機械は、その機能に深刻な不具合を生じさせていた。表面的に見れば、神崎の不在は業務量の減少に繋がった。彼の名を頼って全国から集まっていた外来患者や手術を希望する入院患者は、当然のように激減した。数字の上では、残された職員一人当たりの負担は軽くなったはずだった。
しかし、実際の体感は真逆だった。院内には、常に重く、沈鬱な空気が澱のように溜まっている。廊下ですれ違う職員たちの会話は減り、その目はどこか虚ろだ。これまで活気のあったナースステーションも、今は必要最低限の業務連絡以外、私語を発することが憚られるような、息の詰まる空間へと変貌していた。それは、機械の潤滑油が切れ、歯車同士が軋みを上げながらかろうじて回っている状態に似ていた。負担が減るどころか、精神的な負荷はむしろ増大していたのだ。
そんな状況下でも、変化は起きていた。 神崎を、単なるスター医師としてではなく、一人の優れた外科医として、また一人の人間として慕っていた職員は、予想以上に多かった。彼らは、メディアが作り上げた「白衣の悪魔」という虚像と、自分たちが知る神崎彰の姿との間にある、あまりに大きな乖離に戸惑い、そして静かな怒りを覚えていた。
「何とか、先生を救う方法はないだろうか」
その思いは、自然発生的に、ある種の求心力を生み出していた。昼休みや業務の合間、ナースステーションには、医師や看護師が一人、また一人と集まり、誰からともなく今回の事件について話し合う光景が見られるようになった。
広瀬も、その輪の中にいた一人だった。彼にしてみれば、神崎の手術を学ぶという唯一の目的のために、この病院の門を叩いたのだ。その目的が、キャリアのスタート直後に、足元から崩された。それは、個人的な目標を達成する道を、理不尽な障害物によって塞がれたという、強い閉塞感と憤りをもたらしていた。
その日も、ステーションには数人の有志が集まっていた。
「警察の発表だけじゃ、何が本当かなんて分かりませんよ」
若い麻酔科医が、悔しそうに言った。
「患者さんの証言が、そんなに絶対的なんでしょうか。麻酔からの覚醒時には、少なからずせん妄が起きることは常識なのに」
副主任の相田遥が、冷静に、しかしその声には確かな意志を込めて言った。その言葉が、引き金になった。そうだ、と皆が思った。我々は、医療の専門家だ。事件を、単なるゴシップとして消費するのではなく、専門的な知見から再検証することができるのではないか。
その機運が、その場の空気を支配した。
「一連の事件の経緯を、もう一度、詳しく見直してみませんか」
誰かが言った。それは、広-瀬の心の声を代弁するかのようだった。 そうだ。感情的に憤るだけでは、何も変わらない。事実を、一つずつ積み上げるのだ。患者の入退室記録、防犯カメラの映像、手術当日のスタッフの証言、そして、提出されたという証拠。そこに、論理的な矛盾点はないのか。その瞬間、彼らの集まりは、単なる井戸端会議から、真実を究明するための、非公式な調査チームへとその性質を変えた。広瀬は、自身の新たな目的が、今この瞬間に定まったのを感じていた。
その日の夕方、勤務時間帯が変わるころ、四階のナースステーションの一角にある、スタッフ用の休憩テーブルに、四人の人影があった。広瀬、副主任の相田遥、そして、あの事件当日に日勤だった看護師の二人、便宜上ナースA、ナースBとする。本来であれば、それぞれが帰宅しているか、仮眠を取っている時間だ。しかし、彼らは一様に、張り詰めた表情でテーブルを囲んでいた。非公式な調査チームの、最初のミーティングだった。
口火を切ったのは、広瀬だった。
「まず、我々が持っている情報を整理しましょう。これは、感情論で動いても意味がない」
彼は、チームのリーダー役を自覚していた。
「患者、倉科ミカ。先日、神崎先生の外来で私が直接会いました。そして、診察室の外の待合に、倉科ミカの母親が一人でいたのを確認しています。神崎先生から聞いた話では、倉科ミカの職業は、男性向けのグラビア雑誌に関連するモデルだそうです。撮影スタジオで、写真や動画を制作している、と」
その情報に、ナースAとBがわずかに顔を見合わせた。患者のプライベートな職業は、彼女たちの業務には直接関係のない情報だったからだ。
「お二人は、事件当日、倉科ミカの看護を直接担当されています。何か、気になった点や、普段と違うと感じたことはありませんでしたか」
広瀬の問いに、ナースBが記憶を辿るように答えた。
「術後の患者さんとしては、特に変わった様子はなかったと思います。麻酔から覚めた直後は、少し朦朧とされているようでしたけど、それは通常の範囲内かと…」
カルテから得られる情報は、あくまで過去の医療データに過ぎない。広瀬は、倉科ミカという患者そのものを、もう少し多角的に知る必要があると考えていた。医師として、患者の生活背景や心理状態を把握することは、適切な治療方針を立てる上で不可欠な要素だからだ。彼はそう判断すると、ナースステーションの隅にあるパソコン端末の前に移動し、インターネットブラウザを立ち上げた。検索窓に、彼はキーボードで七つの文字を打ち込んだ。『倉 科 ミ カ』
エンターキーが押される。数瞬の後、モニターの画面に、検索結果がリストとなって表示された。その先頭に表示されたリンクに、広瀬はマウスカーソルを合わせた。広瀬がクリックした先は、倉科ミカの公式ブログと記されたサイトだった。画面には、仕事で撮影されたであろう、肌の露出が多い写真がいくつも掲載されている。
「グラビアモデル、ですか。……身体的にも、精神的にも、負担の大きい職業でしょうね」
相田は、写真を前にしても、ただ淡々と、職業としての分析を口にした。その冷静さに、広瀬は彼女の経験値の高さを改めて感じる。
広瀬がページをスクロールしていくと、相田が「先生、これは?」と、画面の隅にある小さなバナー広告を指差した。そこには、「倉科ミカ、衝撃のDVDデビュー」という扇情的な文句が躍っていた。
広瀬は、無言でそのバナーをクリックした。遷移した先は、個人の制作会社が運営していると思われる、安っぽいデザインの販売ページだった。そして、そこに並べられていたのは、性的嗜好を呼び起こす、怪しい宣伝文句の羅列だった。
――オーナーの要望に、次々と応えて…。
――野外で上半身裸になる、開放的なシーンも。
――今回、一番の“オカズ”になるシーンは、アイスをなめるところ。よだれでベチョベチョですね。
これは、本人も望んでやった仕事なのだろうか。二人は、その品性のない文章を、まるで事件の証拠資料でも読むかのように、黙って目で追った。
「……ひどいな」
先に沈黙を破ったのは、広瀬だった。彼は、目の前の情報を自分なりに整理し、結論を口にした。
「男性向けの、性的描写を意図的に含んだ映像作品、ということですね。これをもとにせん妄状態になるということ、つまり職業的せん妄と言えるのだろう」
それは、状況を客観的に分析した、事実に基づく発言のつもりだった。だが、
「先生!」
隣から、相田の、短く、しかし刃物のように鋭い声が飛んだ。広瀬がはっとして彼女を見ると、その真っ直ぐな目が、非難の色を込めて、じっと彼を射抜いていた。その視線は、明らかに「医療の現場で、その言葉の選び方はもう少し慎重になってほしいです」と告げていた。
2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。
この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。




