1. 大倉病院院長
現役医師の小説は、面白いか?
地下鉄の車両がホームに滑り込み、ドアが開くと、生ぬるい地下の空気が流れ込んできた。広瀬は小さめのキャスター付きスーツケースを転がしながら、人の波に乗って改札を抜けた。目的の出口を示す案内板に従って階段を上ると、むっとするようなアスファルトの熱気と共に、淡いグレーのビルが視界に飛び込んできた。
道路の向かい側に、目的の建物である大倉総合病院が見えた。近代的なガラスとコンクリートで構成されたその建物は、この地域の住民の命を預かる中核病院だ。 ――そしてここが、自分が外科医としてのキャリアを本格的に作り上げていく場所なのだ。 その事実を改めて認識すると、広瀬は無意識に息を呑んでいた。
青信号を待ち、横断歩道を渡る。病院の敷地に入ると、両サイドに手入れの行き届いた花壇と、低く刈り込まれた樹木が並ぶアプローチが伸びていた。全てが計算され、整然としている。正面玄関の自動ドアが静かに開き、空調の効いた冷気が広瀬を迎えた。
ロビーはホテルのように開放的で、清潔感が隅々まで行き渡っている。彼がスーツケースを引いているのに気づいたのか、中年の女性スタッフがすぐに寄ってきた。ボランティアか、あるいは案内係だろう。 「初診でいらっしゃいますか」 マニュアル通りの、丁寧な問いかけだった。 「いえ」広瀬は首を振り、職員証の代わりになるであろう大学病院からの書類を鞄から取り出しかけた。「明日からこちらでお世話になります、後期研修医の広瀬と申します」 その言葉を聞いた瞬間、女性の表情がわずかに変わった。 「たいへん失礼いたしました」 彼女は気まずそうに一礼すると、すぐ横の総合受付カウンターに歩み寄り、中にいる職員に二、三言伝えた。その視線が、一瞬だけ広瀬に向けられる。
すると、すぐに一人の若い女性職員が椅子から立ち上がった。彼女はカウンターの内側にある小さなドアを持ち上げて外に出ると、迷いのない足取りで広瀬に近づいた。その動きには無駄がない。 「広瀬渉先生でいらっしゃいますね。お待ちしておりました」 彼女は完璧な笑顔で言った。 「院長がすでにお待ちです。お部屋までご案内いたします」 彼の到着が、院長レベルにまで伝達されている。予想通りの展開ではあったが、広瀬は改めて身の引き締まる思いがした。
女性職員に誘導され、職員専用と思われるエレベーターホールへと向かう。乗り込んだエレベーターは、驚くほど静かに、そして速く上昇した。到着したのは最上階である6階。カーペットが敷かれた廊下は静まり返り、並んでいるマホガニーの重厚なドアが、このフロアが病院の中枢であることを示していた。
そのうちの一室、院長室という真鍮のプレートが掲げられたドアの前で、女性職員はノックもせずにドアを開けた。 「広瀬先生をお連れいたしました」 室内は広く、大きな窓からは都心の街並みが一望できた。その景色を背にして、デスクから一人の男が立ち上がった。六十代であろうか、がっしりとした体躯に、糊のきいた白衣をまとっている。この病院のトップ、院長の田所だった。 「君が広瀬君か。よく来てくれた」 田所は快活な笑顔で近づき、握手を求めてきた。広瀬は恐縮しながらスーツケースのハンドルから手を離し、その分厚い手を握った。 「広瀬渉です。よろしくお願いいたします」
自己紹介を終えた広瀬の視線は、自然と、院長の横に立つもう一人の男へと吸い寄せられた。 長身で、引き締まった体躯。歳は四十代半ばだろうか、精悍な顔つきのその男の髪には、白いものがわずかに混じっていた。鋭い知性を感じさせる、涼やかな目元。 その男こそ、広瀬がこの病院に来ることを渇望した理由そのものだった。外科医長、神崎彰。
神崎は、値踏みをするような目で広瀬を静かに見つめていた。やがて、彼はすっと右手を差し出した。 「君のことは、医局長から聞いているよ」 その声は、広瀬が論文の発表動画で聞いたものと寸分違わぬ、低く、落ち着いた声だった。 広瀬は、顔の血が一気に上るのを感じた。 「ありがとうございます! 広瀬です。今後とも、どうか、よろしくお願いいたします!」 自分でも、声が上ずっているのがわかった。冷静を装おうとすればするほど、心臓の鼓動は速くなる。神崎の目は、そんな広瀬の動揺を全て見抜いているかのように、静かに彼を捉え続けていた。
実話に基づいたノベルです。
この物語の名前、団体名、施設名などはすべてフィクションです。