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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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18. 社会的制裁

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

警察の捜査が開始されたという情報が、どこからかメディアに漏洩するまで、一週間とかからなかった。

『男性外科医が準強制わいせつ容疑』 『乳腺外科の名医による性犯罪か』 『有名医師、患者へのわいせつ行為で捜査』

挿絵(By みてみん)

センセーショナルな見出しが、週刊誌の吊り広告や、昼の情報番組のテロップで、まるで競い合うように踊った。インターネットのニュースサイトでは、神崎の経歴や写真が、匿名化もされずに晒されている。世論という、実体を持たない巨大な生き物は、あっという間に「エリート医師による卑劣な犯行」という、分かりやすい物語に飛びついた。


神崎は、逮捕されたわけではなかった。しかし、その社会的制裁は、逮捕以上に、彼のキャリアに致命的なダメージを与えた。大学病院、そして彼が執刀していた大倉総合病院も、このメディアの過熱報道を受け、彼を執刀医として手術室に立たせるわけにはいかなくなった。彼の名前は、外来の担当医表から、そして手術のスケジュールリストから、静かに、しかし確実に消去された。


神崎彰自身にしてみれば、それはまさに寝耳に水、という以外に表現のしようがない状況だった。ある日突然、自分が執刀した患者から「手術後にわいせつ行為を受けた」という、事実無根の告発がなされたのだ。警察からの事情聴取の要請。そして、あっという間に嗅ぎつけたマスコミからの執拗な取材攻勢。彼の日常は、わずか数日で、全く別の様相を呈していた。


法的に見れば、彼の立場はまだ「被疑者」ですらない。あくまで参考人としての聴取であり、起訴されたわけでも、ましてや逮捕されているわけでもなかった。病院の就業規則には、この段階で職員を強制的に休ませる明確な条項はない。理論上は、彼が白衣を着て、これまで通り勤務を続けても、何ら問題はないはずだった。しかし、現実は異なる。


彼が臨床業務を遂行することは、事実上、不可能であった。その理由は、誰に指摘されるまでもなく自明のことだった。外科医、とりわけ乳腺外科医という職業は、法的な有罪・無罪の判断とは別の次元で、患者との絶対的な信頼関係の上に成り立っている。身体を預けるという、究極の信頼だ。その医師に、性的暴行の嫌疑がかけられた。その事実だけで、信頼関係を構築するための土台は、根底から崩れ去る。今後、どの患者が、安心して彼に身を委ねることができるだろうか。


病院という組織の観点から見ても、結論は同じだった。万が一、神崎の診察や手術を許可した後に、第二、第三のトラブルが発生すれば、たとえそれが無関係なものであっても、病院の管理責任が問われることは必至だ。リスクマネジメントの観点から、彼を現場に立たせ続けるという選択肢は、あり得なかった。


それは、懲罰ではない。組織が生き残るための、冷徹で合理的な自己防衛措置だ。結果として、神崎は病院から「自宅にて待機するように」という、事実上の出勤停止命令を受けざるを得なかった。それは、彼の外科医としてのキャリアが、完全に停止した瞬間を意味していた。神崎自身、そのロジックを痛いほど理解していた。だからこそ、彼は誰を責めることもできず、ただ自宅で、過ぎていく時間の中に閉じ込められるしかなかった。神の手とまで呼ばれたその両手は、今や何の価値も生み出さず、ただ無為に、膝の上に置かれているだけだった。


神崎彰という病院の中心的モーターが停止したことで、大倉総合病院という精密機械は、その機能に深刻な不具合を生じさせていた。表面的に見れば、神崎の不在は業務量の減少に繋がった。彼の名を頼って全国から集まっていた外来患者や手術を希望する入院患者は、当然のように激減した。数字の上では、残された職員一人当たりの負担は軽くなったはずだった。


しかし、実際の体感は真逆だった。院内には、常に重く、沈鬱な空気が澱のように溜まっている。廊下ですれ違う職員たちの会話は減り、その目はどこか虚ろだ。これまで活気のあったナースステーションも、今は必要最低限の業務連絡以外、私語を発することが憚られるような、息の詰まる空間へと変貌していた。それは、機械の潤滑油が切れ、歯車同士が軋みを上げながらかろうじて回っている状態に似ていた。負担が減るどころか、精神的な負荷はむしろ増大していたのだ。


その影響は、大倉総合病院の外科外来に、目に見える形で現れた。あれほど予約が取れないとまで言われ、常に多くの患者でごった返していた神崎の乳腺外来は、まるで嘘のように、閑散としてしまった。キャンセルを知らせる電話が、鳴り止まなかったのだ。だが、病院の外部が作り出す喧騒とは裏腹に、その内部では、全く逆方向への気運が、静かに、しかし力強く醸成され始めていた


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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