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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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15. 被害者、倉科ミカ

ほぼ事実に基づいていますが、一部創作があります。

現役医師による小説は面白いか?

広瀬が医局へと走り去った後も、四〇八号室の異様な聴取は続いていた。 倉科ミカは、もはやベッドの上で錯乱してはいない。彼女の意識は、驚くほど明晰に戻っており、その口から語られる言葉は、詳細な状況描写と、時系列に沿った、矛盾のない内容で構成されていた。まるで、実際に起こった出来事を、録画映像を再生するかのように、正確にトレースしているかのようだ。 その、あまりに真に迫った内容に、聴取している黒木をはじめ、その場にいる誰もが、驚きを隠せないでいた。


黒木は、身を乗り出し、確認のために質問を重ねた。

「よろしいですか、倉科さん。神崎医師は、あなたの術後の診察のためにこの部屋へ入ってきて、手術をした右胸とは反対の、こちらの左胸を、舐めた。そういうことで間違いないですね?」

「はい。先生は、そこに立っていました」

ミカは、そう言うと、震える指で、自分が横たわるベッドの右脇の空間を、はっきりと指し示した。

「その時、この部屋には、あなたと神崎先生の二人だけでしたか。他の患者さんたちも、もちろんベッドにおられたとは思いますが、他に誰か、あなたの近くにいた人間は?」

「…見舞いに来てる」ミカは少し間を置いてから答えた。

「お母さんです」

「なるほど」

黒木は頷き、さらに核心に迫る質問を投げかけた。

「この件について、警察に通報されたのは、どなたですかな。その、お母さんですか?」

「いえ、違います。私の上司の、園部さんです。私が、ここから園部さんにメールをして、警察に伝えてほしい、と頼んだんです」

挿絵(By みてみん)

黒木は、その答えを聞くと、一度腕を組んだ。そして、顎に生えた無精ひげを、指先でつまむようにしながら、思考を巡らせた。 ――おかしい。ロジックが通らない。周りには他の患者もいる。付き添いの母親までいた、と言う。たとえカーテンで仕切られていたとしても、そんな状況で、一人の人間が、これほど破廉恥な行為に及ぶだろうか。しかも、相手は社会的地位のある外科医だ。リスクが大きすぎる。この女は、嘘をついているのではないか。しかし、それにしても、話の内容があまりにも鮮明すぎる…。


黒木の頭の中で、理性的な分析と、ある別の感情がせめぎ合っていた。 やがて、後者の感情が、彼の思考を完全に支配した。 ――医者が、患者に対して性犯罪。 なんという、スキャンダラスな構図だろうか。こんな社会の注目を浴びる事件は、滅多にお目にかかれるものではない。もし、これを立件できたら。自分の手柄として、この事件を解決できたら。 警視庁の、いや、検察庁の、あの伊勢崎検事が、どれほどこの案件に興味を示すだろうか。彼の顔が、黒木の脳裏に浮かんだ。黒木は、それまでの厳しい表情を、ふっと緩めた。彼の口元に、まるで、飢えた獣が、絶好の獲物を見つけた時のような、獰猛な笑みが、ゆっくりと広がっていった。


黒木は部屋の隅まで視線を巡らせると、ゆっくりと舟越師長へと身体を向け直した。

「舟越師長。この大部屋には他の患者さんもおられます。詳しいお話を伺うため、どこか個室を用意していただきたい。倉科さんをそちらに移し、改めて聴取します」

それは、表向きは丁寧な依頼でありながら、実質的には拒むことのできない命令だった。舟越は小さく息を呑み、頷いた。黒木はすぐにミカへ視線を戻した。

「その前に、こちらの女性警察官に、倉科さんの身体の状況を確認させてもらいますが、よろしいですね?」

布団の上で力なくうなずくミカ。その様子を確認すると、黒木は女性警察官の耳元に顔を寄せ、二、三言、短くささやいた。具体的な指示だろう。女性警察官が真剣に頷くのを見届けると、黒木は「では、お願いします」とだけ言い残し、部下を伴って退室した。男たちの足音が遠ざかり、室内に静寂が戻る。残されたのは、女性警察官と舟越師長、それにベッド上のミカだけだった。


その時、廊下から慌ただしく入ってきた人影があった。ミカの上司であるマネージャー、園部圭太だ。

「ミカ!」

彼は心配そうに顔を寄せた。思わず涙がにじむ。

「来てくれて……ありがとう。」

弱々しくも安堵を含んだ笑みを浮かべるミカに、園部は「当然だ」と答えるように肩に手を置いた。

だが、女性警察官がきっぱりと声をかける。

「これから身体を拭き取り、検体を採取します。男性の方は退室してください。」

園部は一瞬言葉を失ったが、ミカが必死に口を開いた。

「園部さんは……上司です。私が信頼している人です。……お願い、ここにいてほしいんです。」

その嘆願に、女性警察官はわずかに眉をひそめた。規則では認められない。しかし、ミカの震える声を無視することもできない。逡巡ののち、彼女は

「分かりました。黒木に確認を取ります」と言い、携帯無線機で連絡を取った。

短い応答の後、女性警察官は小さく頷いた。

「許可が出ました。それでは、始めます。」

彼女はミカの正面に立ち直り、姿勢を正して小さく会釈をした。

「失礼します」

室内は再び静まり返り、検査が始まろうとしていた。低く落ち着いた声が響く。彼女はミカの病衣の胸元にそっと手をかけ、ためらいを見せぬ仕草で襟を開いた。布地が滑り、左の胸が淡い光にあらわになる。バッグを探り、彼女は白いガーゼの入ったビニール袋を取り出した。慎重にピンセットを握り、袋の口を開ける。だが、その瞬間――ひらり、と。摘まみ損ねた一枚のガーゼが宙を舞い、床に落ちた。

「あっ……」

短い声が漏れる。女性警察官は一歩前に出ようとしたが、その足を止めた。

――一度でも床に触れたガーゼは、もはや検査用の検体としては使えない。科捜研に提出するには、不潔すぎる。彼女は唇を噛み、顔を上げた。

「すみません、師長さん」

困ったような表情で舟越を見やり、言葉を続ける。

「もし滅菌ガーゼがありましたら……それをいただけないでしょうか」

舟越は即座に頷いた。

「わかりました。すぐに用意させます」

彼は無駄のない動きで病室を出ると、ナースステーションに立つ相田に声をかけた。

「相田さん、滅菌ガーゼのパックを一つ、急いで」

「はい」


相田はただならぬ気配を察し、返事と同時に駆け出した。備品室へ入ると、棚には二種類のガーゼが並んでいた。病棟用のものと、手術室で使用する特殊なもの。一瞬迷ったが、相田は直感的に考えた。――より厳格に滅菌されているのは手術室用だ、と。彼女は数枚ずつ封入されたパックを手に取り、足早に病室へ戻る。

「お待たせしました」

差し出された滅菌ガーゼのパックを舟越が受け取り、そのまま女性警察官へと手渡した。


2016年に起きた乳腺外科医の冤罪をベースにしたノベルです。

この小説の中に現れる、人名、団体名、施設名は全てフィクションです。

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