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神の手と悪魔の唾液  作者: 横山晋朋
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プロローグ

現役医師による小説は面白いか?

二年間の初期研修医としてのプログラムが、最終日を迎えようとしていた。広瀬渉にとって、それは医師としてのキャリアにおける最初の、そして極めて重要な分岐点だった。次の配属先が、今後の彼の専門性と、ひいては医師生命そのものを規定すると言っても過言ではなかった。そして、その人事権は、大学医局という閉鎖的な組織の中で、医局長と呼ばれる一人の男の手に委ねられている。合理性よりも、しばしば力関係や派閥の論理が優先される世界だ。


医局長室のドアをノックする前、広瀬は自身のプランに誤りがないかを頭の中で再確認した。あらゆる可能性をシミュレーションし、反論された場合の切り返しも複数用意してある。これは単なる希望を伝える場ではない。交渉なのだと、彼は自身に言い聞かせた。

「どうぞ」

中から聞こえた声には、何の感情も含まれていなかった。 室内は、想像していたよりもずっと機能的だった。壁一面のスチール製書庫には、膨大な量のファイルが整然と並んでいる。医局長は、広瀬が入室しても視線を上げることなく、パソコンのモニターに映し出されたデータと向き合っていた。その指が、素早くキーボードを叩いている。

「座っていいですよ」

言われて、広瀬は来客用のパイプ椅子に腰を下ろした。沈黙が流れる。医局長が、広瀬の研修期間中の総合評価を画面上で確認しているのだろうと推察した。評価はAのはずだ。同期の中でも、オペの執刀数、レポートの質、いずれもトップクラスを維持してきた自負があった。


やがて、医局長はモニターから目を離し、初めて広瀬と視線を合わせた。鋭い、全てを見透かすような目だった。

「広瀬君。君の次のポストだが、△病院の外科から話が来ている。あそこは腹腔鏡手術の症例数が多く、君にとっても良い経験になるはずだ」

ロジカルな提案だった。だが、広瀬の目的はそこにはない。

「お心遣い、感謝いたします。ですが医局長、もし許可をいただけるのでしたら、私は大倉総合病院の外科を希望いたします」

「大倉? 理由は?」 医局長は、感情を見せずに問い返した。感情論や漠然とした憧れは、この男には通用しない。広瀬は、用意していた言葉を慎重に口にした。

「神崎彰先生の下で、乳腺外科の術式を学びたいと考えております。特に、神崎先生が手掛けているセンチネルリンパ節生検と、それに基づいた腋窩リンパ節郭清の省略手技は、術後の患者のQOLを劇的に改善するものです。論文データは拝見しましたが、あの手技を実践レベルで習得できるのは、神崎先生手術を見ることだと思います。それで、先生は大倉病院で多くの乳腺の手術をされているので、できたら大蔵病院に行きたいというのが、私の希望です」

広瀬が淀みなく言うと、医局長の目が僅かに細められた。彼が単なるスター医師へのミーハーな憧れで希望を述べているのではないことを、理解したようだった。

「神崎先生は、若いが故に敵も多い。彼のやり方は、旧来の外科の常識を覆すものだからな。君も、その一派だと見なされることになる。そのリスクは理解しているか」

「承知しております。ですが、外科医として、より侵襲が少なく、根治性の高い術式を選択するのは当然の責務だと考えます。そのためのリスクであれば、負う覚悟です」

沈黙が、先ほどよりも長く感じられた。医局長は、広瀬の目から何かを読み取ろうとするかのように、じっと彼を見つめていた。やがて、ふっと口元を緩めた。それは、笑みと呼ぶにはあまりに微かな変化だった。

「わかった。そこまで言うのなら、推薦しよう。ただし、結果を出すのは君自身だ。大倉先生のレベルについていけるよう頑張りなさい」

「はい。ありがとうございます」

広瀬は立ち上がり、深く頭を下げた。感情を排した、純粋なビジネスとしての礼だった。 医局長室を出て、無機質な廊下を歩きながら、広瀬は静かに息を吐いた。第一関門は突破した。これで、ようやくスタートラインに立てる。

挿絵(By みてみん)

部屋を出て、重いドアを閉める。蛍光灯が白々と照らす、殺風景な廊下に一人立つと、自分は医局の一つの駒だが、望む盤上に乗せてもらえた。あとは、自分の努力でやるだけだ。広瀬は、汗で湿った拳を強く握りしめた。


実話をベースにしたストーリーです。

登場中の名前、施設名などはすべてフィクションです。

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