第八十七話 僕の番
『もう、ただの幼馴染じゃないよ。……私の、大切な彼氏だもん』
昨夜に、僕の耳元で囁かれた、吐息混じりの甘い声。
その言葉の破壊力は凄まじく、月曜日の朝になっても、僕の心臓を支配し続けていた。
いつもと同じ時間に玄関のドアを開ける。
ガチャリ、と隣の家のドアも、全く同じタイミングで開いた。
「おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
僕の顔を見るなり、優愛の頬が、ふわりと朱に染まる。
昨夜の、あの大胆な行動を思い出して、照れているのが丸わかりだ。
その反応がたまらなく愛おしくて、僕は、もう隠すことなく、にやけてしまいそうになるのを必死でこらえた。
「……行こっか」
「うん」
僕らは、ごく自然に、手を繋いで歩き出す。
昨日までの、どちらかがためらうようなぎこちなさはない。
これが、僕らの、新しい日常。
教室に入っても、その甘い空気は続いていた。
「おっはよー、溢喜、優愛!」
希望が、いつも通りに声をかけてくる。
「おう」
「……おはよう」
僕が普通に返すのに対し、優愛の返事は、蚊の鳴くような声だった。
「ん? どうした優愛、元気ねえな」
「そ、そんなことないよ!」
慌てて否定する彼女の顔は、耳まで真っ赤だ。
その様子を見て、美褒が、全てを察したように、くすくすと笑い始めた。
「そっかそっか。昨日は、色々あったんだねえ、ゆーちゃん」
「み、美褒まで!」
完全に、遊ばれている。
でも、僕の心は、今まで感じたことのないくらいの優越感と、幸福感で満たされていた。
僕だけが、彼女がこんなにも可愛い理由を、知っているのだ。
放課後。
帰り道も、僕らは、ずっと手を繋いでいた。
他愛ない話をしながら、時々、目が合っては、どちらからともなく、はにかんでしまう。
なんて、幸せな時間なんだろう。
家の近くの角を曲がり、僕らの家が並ぶ道へと入る。
辺りはもう、ほとんど人通りがない。
「……あのさ」
僕が、ふいに立ち止まると、優愛も不思議そうに足を止めた。
僕は、彼女の顔を真っ直ぐに見つめて、言った。
「昨日の夜のこと、なんだけど」
「……!」
その単語を出しただけで、優愛の肩が、びくりと跳ねる。
「僕、すごく、嬉しかった」
「……」
「でも、あれは、反則だと思う」
「……ごめん」
しゅん、と子犬みたいにしょげてしまう彼女を見て、僕はたまらなくなって、繋いでいない方の手で、彼女の頭を、優しく、わしゃわしゃと撫でた。
「わっ……!」
「だから、今度は、僕の番」
僕はそう言って、彼女の腕を、そっと引いた。
近くの電柱の影。街灯の光が、直接は届かない、二人だけの、小さな空間。
「さっき、溢喜、言えなかったでしょ。私のこと」
僕は、昨日の夜、彼女が僕に言ったのと同じセリフを、そっくりそのまま、返してあげた。
驚いて、大きく見開かれる、彼女の瞳。
「だから、僕が代わりに、言ってあげる」
そして、僕は、少しだけ屈んで、彼女の耳元に、唇を寄せた。
「もう、ただの幼馴染じゃないよ。……僕の、大切な彼女だもん」
僕の、吐息混じりの甘い声に、優愛の体が、今度こそ、カチン、と固まったのが分かった。
僕は、満足そうににこりと笑うと、そのついでに、真っ赤に染まった彼女の頬に、ちゅ、と、唇を寄せた。
「……!」
今度こそ、優愛は、完全にショートしてしまったようだった。
僕の胸に、こてん、と額を預けて、動かなくなってしまった彼女の、小さなつむじ。
その愛おしさに、僕はもう、たまらなくなって、彼女の華奢な体を、強く、強く、抱きしめた。
僕らの、甘くて、くすぐったい日常は、どうやら、まだ始まったばかりのようだった。




