第七十八話 君がいるから
土曜の夜に交わした、初めてのキス。
その甘い余韻は、月曜日の朝になっても、僕の思考を完全に支配していた。
いつもと同じ時間に、玄関のドアを開ける。
ガチャリ、と隣の家のドアも、全く同じタイミングで開いた。
「「おはよう」」
声が、綺麗に重なった。
僕らは、どちらからともなく、顔を見合わせ、そして、吹き出すように笑ってしまった。
もう、そこには、先週のような気まずさなんてなかった。
ただ、どうしようもなく幸せで、くすぐったい空気が、僕らの間を流れている。
「……なんか、すごいね」
優愛が、楽しそうに笑う。
「ああ。すごいな」
二人で並んで歩く、いつもと同じ通学路。
でも、僕の心は、今までで一番、軽くて、晴れやかだった。
もう、何も怖くない。
この温かい関係が、壊れるなんて、そんな心配は、もういらないんだ。
教室に入ると、一番に僕らに気づいた希望が、「おっ」と声を上げた。
「なんだよ、お二人さん。すっかり、吹っ切れた顔しちゃってまあ」
「うるさいな」
僕がそう返すと、隣の美褒が「よかったね、ゆーちゃん」と、優愛にだけ聞こえるような声で、優しく微笑んだ。
優愛も、嬉しそうにこくりと頷いている。
その日の授業は、不思議なくらい、頭にすんなりと入ってきた。
時々、隣の席の優愛と目が合う。
そのたびに、二人で小さく笑い合う。
それだけで、どんな難しい数式も、どんな退屈な歴史の年号も、全部、キラキラと輝いて見えた。
昼休み。
四人で集まって弁当を広げていると、不意に、優愛が僕のお弁当箱を指差した。
「あれ、溢喜。その卵焼き……」
「ん? ああ、母さんが……」
言いかけて、僕ははっとした。
僕のお弁当に入っている、少しだけ形のいびつな卵焼き。
それは、間違いなく、土曜日に優愛が僕の家で作ってくれた、あの卵焼きの残りだった。
「……う、うまそうだな、それ!」
希望が、何も気づかずに、僕の卵焼きを箸でつまもうとする。
「お、おい!やめろ!」
僕が慌ててそれを阻止していると、目の前の優愛が、顔を真っ赤にして、完全に固まっていた。
その反応を見て、美褒が、全てを察したように、僕のお弁当に入っていた卵焼きを、箸で掴んで始めた。
「へえ、溢喜くんちの卵焼きって、そういう味なんだ」
「み、美褒まで!」
もう、ダメだ。
完全に、墓穴を掘った。
僕も、優愛も、顔から火が出そうなくらい真っ赤になって、俯いてしまう。
そんな僕らを、希望だけが「??」という顔で、不思議そうに見ていた。
放課後。
帰り道で、ようやく落ち着きを取り戻した僕らは、昼休みの出来事を思い出して、また笑い合った。
「……ごめん。まさか、母さんが弁当に入れるなんて」
「ううん。……ちょっと、恥ずかしかったけど、でも……嬉しかった」
優愛が、ぽつりと言う。
その横顔を見ながら、僕は、どうしようもないくらいの愛おしさで、胸がいっぱいになった。
家の近くの角を曲がる。
「なあ、優愛」
「ん?」
「テスト、終わったらさ」
「うん」
「……また、どこか、行こうな」
僕の言葉に、優愛は、何も言わずに、僕の右手を、そっと、両手で包み込むように、握った。
そして、最高の笑顔で、こう言った。
「うん。約束、だよ」
恋人になって、初めて迎えた、月曜日。
それは、今まで過ごしてきた、どんな月曜日よりも、ずっと、ずっと、幸せな一日だった。




