第七十七話 甘い余韻と、優しい目
唇に残る、柔らかな感触。
土曜日の夜に交わした、初めてのキス。
その余韻は、日曜の朝になっても、僕の思考を完全に支配していた。
(……やばい。ニヤニヤが、止まらない)
鏡に映る自分の顔が、だらしなく緩みきっている。
今日は、優愛と会う約束はない。ただの中間テスト前、最後の日曜日。
本来なら、昨日やり残した勉強の続きをしなければならないはずなのに、教科書を開いても、数式も英単語も、全く頭に入ってこなかった。
『……今日の、続きは?』
『……へたれ』
僕の心の中で、昨夜の優愛の言葉と表情が、無限にリピート再生される。
そのたびに、顔が熱くなり、心臓が大きく跳ねた。
もう、勉強なんて、無理だ。
その日の午後。
結局、僕はほとんど勉強に手がつかないまま、ぼーっと時間を過ごしていた。
不意に、スマホがピコン、と鳴る。
画面に表示されたのは、「美褒」の名前だった。
『溢喜、ゆーちゃんから連絡あった? なんだか、今日のゆーちゃん、朝からずっと上の空みたいで、心配なんだよね』
美褒のメッセージに、僕の心臓が、ちくりと痛んだ。
僕が自分の幸せな余韻に浸っている間に、優愛は、もしかしたら一人で、昨日のことを思い出して、恥ずかしがったり、不安になったりしているのかもしれない。
僕と同じように。
(……何やってんだろ)
いてもたってもいられず、僕はスマホを掴んで、家の外に飛び出した。
向かう先は、一つしかない。
隣の家の、インターホンを鳴らす。
ピンポーン。
数秒後、少しだけ警戒するような「……はい」という声が聞こえた。
優愛だ。
「あ、僕だけど……。その、今、大丈夫か?」
『……!』
電話の向こうで、彼女が息を呑むのが分かった。
やがて、ガチャリ、とドアがゆっくりと開く。
出てきたのは、ラフな部屋着姿の優愛だった。
僕の顔を見るなり、彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「な、なんで……!」
「いや、なんか、その……」
僕も、彼女の顔を見たら、昨日の記憶が鮮明に蘇ってきて、しどろもどろになってしまう。
二人して、顔を真っ赤にして、玄関先で黙り込む。
気まずい。最高に、気まずい。
でも、もう、逃げたくなかった。
僕は、意を決して、口を開いた。
「……勉強、全然、手につかなくて」
「……私も」
「だから、その……。昨日みたいに、また、一緒にやらないか?」
僕の、不器用な誘い。
優愛は、俯いたまま、小さな声で「……うん」とだけ、答えた。
僕の部屋の、ローテーブル。
昨日と全く同じ場所で、僕らは、また向かい合って座っていた。
でも、その空気は、昨日とは比べ物にならないくらい、甘くて、ぎこちない。
シャープペンを握る音だけが、やけに大きく部屋に響く。
時々、視線が合っては、二人して慌てて逸らす。
その繰り返し。
(……だめだ。余計に、集中できない)
そう思った、その時だった。
テーブルの下で、優愛の足が、僕の足に、こつん、と優しく触れた。
びくり、と僕の肩が揺れる。
ちらりと彼女の顔を盗み見ると、彼女は、ノートに顔をうずめるようにして俯いていたけれど、その耳は、真っ赤だった。
それは、言葉にしなくても分かる、彼女からの、不器用で、でも確かなメッセージ。
「私も、同じ気持ちだよ」と。
その小さな温かさに、僕の心は、どうしようもないくらいの愛おしさで満たされた。
僕も、テーブルの下で、そっと、彼女の足に、自分の足を寄せた。
もう、離さない、というように。
二度目のキスは、まだ、少しだけ先の話。
でも、僕らの心は、もう確かに、一つに重なっていた。




