第七十六話 世界で一番、甘いもの
『……今日の、続きは?』
その、たった一言が、僕の頭の中で、何度も、何度も、繰り返し再生される。
後悔と自己嫌悪でいっぱいだったはずの僕の心は、今、それとは正反対の、どうしようもないくらいの幸福感で、はち切れそうだった。
(……返事、しないと)
分かっている。
分かっているのに、指が震えて、うまく文字が打てない。
なんて返せばいい?
『僕も、続きがしたい』
いや、ストレートすぎるか?
『いつにする?』
まるで、急かしているみたいじゃないか?
僕が一人、スマホの画面と睨めっこしていると、ピコン、と、もう一通、優愛からメッセージが届いた。
『ごめん、変なこと聞いたよね。忘れて』
違う!
違う、そうじゃない!
僕は、慌てて、ほとんど反射的に、文字を打ち込んだ。
『忘れるわけないだろ。僕も、続きがしたい』
送信ボタンを押してから、僕は自分の送ったメッセージの、あまりの素直さに、また顔が熱くなるのを感じた。
でも、もう、これでいいんだ。
これが、僕の本当の気持ちなんだから。
既読の文字は、すぐについた。
でも、そこから、彼女の返事は、なかなか返ってこなかった。
その数分間が、永遠のように長く感じられる。
(……まずかった、かな)
また、不安が胸をよぎる。
もう、我慢できない。
僕は、ベッドから飛び起きると、パジャマのまま、静かに自分の部屋のドアを開け、廊下に出た。
そして、そっと、玄関のドアを開けて、外に出る。
ひんやりとした夜の空気が、火照った頬に心地いい。
僕と優愛の家を隔てる、ほんの数メートルの空間。
僕は、ただ、彼女の部屋の窓を見上げた。明かりは、ついている。
彼女も今、僕と同じように、スマホを握りしめて、ドキドキしているんだろうか。
そう思った、その時だった。
ガチャリ、と。
隣の家の玄関のドアが、静かに開いた。
出てきたのは、僕と同じように、パジャマの上にカーディガンを羽織っただけの、優愛だった。
「……」
「……」
僕らは、どちらも何も言えずに、ただ、互いの家のまん中で、立ち尽くしていた。
街灯の頼りない光が、僕らの姿を、ぼんやりと照らしている。
先に口を開いたのは、優愛だった。
「……なんで、出てきたの」
「……優愛こそ」
「……返事、びっくりしたから」
「……僕も、優愛のメッセージに、びっくりした」
不器用な会話。
でも、その一つ一つが、僕らの本当の気持ちを、確かめ合っているようだった。
「……あのさ」
僕が言うと、優愛が、こくりと頷く。
「続き、ってわけじゃないけど」
僕は、意を決して、彼女の前に一歩、踏み出した。
そして、彼女の冷たくなった右手を、そっと、僕の両手で包み込んだ。
「……っ」
優愛の肩が、びくりと揺れる。
「もう少しだけ……こうしてても、いいか?」
僕の、精一杯の問いかけ。
優愛は、何も言わずに、でも、確かに、僕の手を、きゅっと、握り返してくれた。
その小さな力が、彼女の答えの、全てだった。
僕らは、そのまま何も話さなかった。
ただ、静かな夜の中で、手を繋いで、見つめ合っていた。
街灯の光が、彼女の潤んだ瞳をキラキラと照らしている。
その瞳に吸い込まれるように、僕は、無意識のうちに、ほんの少しだけ、彼女に顔を近づけていたのかもしれない。
でも、それ以上、動けなかった。
あと数センチが、果てしなく遠い。
臆病な僕にできるのは、ここまでが限界だった。
(……だよな。こんなところで、いきなりなんて……)
僕が、諦めて顔を離そうとした、その時だった。
「……へたれ」
不意に、優愛が、小さな声で、そう呟いた。
そして、繋いでいない方の手で、僕のシャツの裾を、きゅっと掴んだ。
「え……?」
僕が驚いていると、彼女は、その掴んだ裾を、ぐっと、自分の方へと引き寄せた。
当然、僕の体は前のめりになる。
目の前には、顔を真っ赤にして、でも、僕を真っ直ぐに見上げる、決意に満ちた彼女の瞳。
そして、彼女は、精一杯、背伸びをした。
僕らの唇が、ゆっくりと、重なった。
それは、ほんの一瞬。
柔らかくて、温かくて、少しだけ、甘い味がした。
ゆっくりと顔が離れる。
目の前には、やり遂げた、という顔と、恥ずかしくてたまらない、という顔がごちゃ混ぜになった、とんでもなく可愛い優愛がいた。
彼女は、僕の胸に、こつん、と自分の額を押し当てて、顔を隠してしまった。
「……反則だろ、今の」
僕が、かろうじてそれだけ言うと、彼女は顔を上げないまま、くぐもった声で言った。
「……溢喜が、してくれないから」
その、あまりにも可愛すぎる言い訳に、僕はもう、たまらなくなって、彼女の華奢な体を、強く、強く、抱きしめた。
「……風邪、ひくなよ」
「……うん。溢喜も」
「おやすみ」
「……おやすみ」
僕と優愛の、初めての週末は、こうして、本当に終わりを告げた。
でも、僕の心の中には、確かな予感が芽生えていた。
始まったばかりの、恋人としての毎日は、きっと、今日よりも、もっとずっと、甘くて、幸せなものになっていくに違いない、と。
唇に残る、柔らかな感触と、僕の胸を叩く、彼女の速い鼓動を、僕は何度も、何度も、確かめていた。




