第七十五話 甘い罰と、嬉しい誤算
「……ばか」
か細い、でも、少しも怒っていない、甘い声。
その声と、潤んだ瞳で僕を見上げる彼女の表情に、僕の理性の糸は、ぷつりと、音を立てて切れた。
僕は、彼女の手を握ったままの左手に、そっと力を込める。
そして、もう片方の右手を、彼女の頬に優しく添えた。
「……っ」
優愛の肩が、びくりと大きく震える。
でも、彼女は目を逸らさなかった。
それどころか、まるでその先を促すように、ゆっくりと、その長いまつげを伏せた。
もう、我慢なんて、できるはずもなかった。
僕らの顔が、ゆっくりと、近づいて――
コンコン。
控えめなノックの音と、ドアの向こうからの「溢喜ー? いるー?」という母さんの声が、甘い空気を破った。
「「……!!」」
僕らは、まるで感電したみたいに、同時に体を離した。
心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。
ガチャリ、とドアが開いて、母さんがひょっこりと顔を出す。
「あら、優愛ちゃんも来てたの。こんにちは。ちょうどケーキ買ってきたから、リビングで一緒にどう?」
僕と優愛は、顔を見合わせたまま、カチコチに固まってしまった。
頬に添えていた手も、握りしめていた手も、いつの間にか離れている。
ただ、互いの熱だけが、まだそこに残っているようだった。
「……ご、ごめん! 僕、お茶、淹れてくる!」
僕は、しどろもどろでそう言うと、逃げるように部屋を出て、リビングへと向かった。
結局、その日は、リビングで母さんが買ってきたケーキを三人で食べることになり、僕と優愛の勉強会は、気まずい雰囲気のまま、強制的に終了となった。
帰り際。
玄関まで優愛を見送る。
二人きりになっても、僕らはどちらも、さっきの出来事に触れることができなかった。
「……じゃあ、また、月曜な」
「……うん。またね」
ドアが閉まる、その瞬間。
優愛が、何かを言いかけたように、少しだけ、口を開いた。
でも、結局、何も言わずに、ぺこりとお辞儀をして、隣の家に帰っていった。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、僕は自分の行動を思い出して、頭を抱えた。
(……何やってんだよ……!)
完全に、雰囲気に流されて、暴走してしまった。
最低だ。
引かれたかもしれない。
もう、今までみたいに、隣で笑ってくれないかもしれない。
後悔と自己嫌悪の嵐が、僕の胸の中で吹き荒れる。
ピコン。
その時、静まり返った部屋に、スマホの通知音が響いた。
画面に表示されたのは、「優愛」の名前だった。
心臓が、どきり、と跳ねる。
恐る恐る、メッセージを開く。
そこに書かれていたのは、たった一言だけだった。
『……今日の、続きは?』
その、あまりにも不意打ちで、あまりにも大胆な一文に、僕の思考は、完全に停止した。
後悔と自己嫌悪の嵐は、一瞬で吹き飛んだ。
代わりに、僕の心の中には、今まで経験したことのない、最大級の、甘い爆弾が投下された。
「……マジかよ」
僕は、天井に向かって、誰に言うでもなく、そう呟いた。
顔が、熱い。
心臓が、うるさい。
どうしようもなく、彼女に会いたい。
着ていたTシャツとジーンズを脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。
冷静になろうとしたはずなのに、火照った体は少しもクールダウンしてくれない。
僕は、ラフなパジャマに着替えると、改めてスマホを握りしめた。




