第七十話 今日から、恋人
潮風が、僕らの間を優しく吹き抜けていく。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
僕の腕の中で、優愛の肩がほんの少しだけ震えているのに気づき、僕は慌てて体を離した。
「ご、ごめん……!」
「ううん」
顔を上げた彼女は、まだ瞳に涙を浮かべていたけれど、その顔は、僕が今まで見た中で、一番、幸せそうに輝いていた。
「……なんで、溢喜まで泣いてるの」
「え……?」
優愛に言われて、僕はそっと自分の頬に触れた。
濡れていた。
いつの間にか、僕も泣いていたらしい。
恥ずかしさと、嬉しさと、安堵と、色々な感情がごちゃ混ぜになって、もう訳が分からなかった。
僕のそんな顔を見て、優愛は「ふふっ」と、また涙をこぼしながら、楽しそうに笑った。
僕らは、どちらからともなく、もう一度、そっと手を繋いだ。
さっきまでの、衝動的なものではない。
これからは、ずっとこうしていくのだという、確かで、温かい約束のような手の繋がり方だった。
帰り道の電車の中。
僕らは、来た時と同じ窓際の席に、並んで座っていた。
でも、その空気は、もう全く違う。
優愛は、今度は眠っているわけではなく、自ら、僕の肩にこてん、と頭を預けてきた。
「……」
肩にかかる、愛おしい重み。
僕は、もう固まったりはしなかった。
ただ、心臓が温かいもので満たされていくのを感じながら、そっと、自分の頭を、彼女の頭の上に優しく重ねた。
「……なんか、変な感じ」
優愛が、くすくすと笑いながら呟いた。
「何が?」
「いつもと同じなのに、全部、違うみたい」
「……僕も、そう思う」
繋いだ手の指を、そっと絡め合う。
もう、言葉は必要なかった。
ただ、隣にいる。
その事実だけで、僕らの心は満たされていた。
家の近くの、いつもの角。
いつもなら、ここで足を止めるはずの場所。
でも、今日、僕らはどちらも、足を止めなかった。
そのまま、無言で、僕らの家が並ぶ道へと入っていく。
「じゃあ、また明日、学校で」
「うん。……おやすみ、溢喜」
「……おやすみ、優愛」
恋人として、初めて呼ぶ、名前。
恋人としての、初めて交わす、挨拶。
その一つ一つが、僕らの新しい物語の、大切な最初のページになっていく。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、僕は繋いでいた右手を、ぎゅっと握りしめた。
まだ、彼女の温もりが残っている。
その温もりを確かめるように、何度も、何度も。
ピコン、とスマホが短く鳴った。
画面に表示されたのは、優愛からのメッセージだった。
『今日は、本当にありがとう。世界で一番、幸せな一日だったよ』
その言葉に、僕の心は、どうしようもないくらいの幸福感で、弾けそうだった。
僕は、ただ一言だけ、返信を打った。
『僕もだよ』
面倒見のいい幼馴染は、今日から、僕の彼女になった。
僕らの新しい時間は、今、確かに始まったばかりだった。




