第六十話 センチメンタルな夕暮れ
涼風祭を明日に控えた金曜日の放課後。
僕らの教室は、甘い匂いと、最後の仕上げに追われる生徒たちの熱気で、むせ返るようだった。
「クッキー、全部焼き上がったよー!」
「謎解きカードの最終チェック、お願い!」
「看板、あとは文字を入れるだけだ!」
調理係が試作したクッキーの香ばしい匂いが漂う中、僕はカウンターの最後の飾り付けをしていた。
優愛は、各係を回りながら、最終的な指示を出している。
その横顔は真剣で、でも、どこか楽しそうだった。
「副委員長、ちょっといいか?」
「ん、どうした?」
謎解き係のリーダーが、一枚のカードを持って僕のところにやってきた。
「最後の問題、どうしても良いのが思いつかなくて……。何か、いいアイデアないか?」
僕も一緒になって頭を捻る。
「うーん……最後の謎は、カフェのメニューに関係するものがいいよな」
「そうなんだよ。でも、ありきたりなのは、もう出尽くしちゃって……」
その時、ふと、僕の頭にある光景がよぎった。
この前、優愛が嬉しそうに飲んでいた、缶コーヒー。
「……あのさ、答えが『コーヒー』になるような、なぞなぞ、とかどうだ?」
「なぞなぞ?」
「ああ。『飲んだら、大人の仲間入り。でも、飲みすぎると眠れなくなっちゃう、黒くて苦い飲み物なーんだ?』みたいな」
「……それ、なぞなぞか?」
係のリーダーが、怪訝な顔をする。
「まあ、クイズってことだよ、クイズ!」
僕の少しごまかすような言い方に、係のリーダーは「……それ、面白いかも!サンキュ、副委員長!」と笑って戻っていった。
やがて、完全下校時刻のチャイムが鳴り響く。
ほとんど完成した教室の装飾を眺めながら、クラスメイトたちが「明日頑張ろうな!」「お疲れ!」と満足そうな顔で帰っていく。
「溢喜、戸締り、お願いしてもいい?」
「おう、任せろ」
最後に残ったのは、また僕と優愛の二人だけだった。
二人で、誰もいなくなった教室を見渡す。
手作り感満載のカウンター、壁に貼られたマスキングテープの装飾、天井から吊るされたLEDキャンドル。
完璧とは言えないかもしれないけど、僕らが、僕らのクラスが、一丸となって作り上げた、最高の空間だった。
「……終わっちゃうね」
夕日が差し込む窓辺に立ち、校庭を眺めながら、優愛がぽつりと呟いた。
その声は、どこか寂しげだった。
「そうだな」
「準備期間、すごく大変だったけど……でも、すごく、楽しかった」
僕も、同じ気持ちだった。
この数週間、副委員長として、彼女の隣で過ごした時間は、今までの人生で一番、濃くて、充実した時間だったかもしれない。
「……涼風祭が終わったら、また、普通の毎日に戻るんだね」
優愛の言葉に、僕の胸が、ちくりと痛んだ。
委員長と、副委員長。
この特別な関係でいられるのも、明日と、明後日の、二日間だけ。
その時、僕は、どうしようもない衝動に駆られていた。
「なあ、優愛」
「ん?」
「涼風祭、さ。……明日、少しだけでいいから、二人で、一緒に回らないか?」
僕は、彼女の肩にそっと手を置き、自分の方へと向き直らせた。
驚いたように見開かれる、大きな瞳。
夕日が、その瞳を、キラキラと濡れているように見せた。
「……いいの?」
「いいのって、何が」
「だって、溢喜、本当はこういうの、あんまり好きじゃないでしょ? 無理して、ない?」
僕の気持ちを、どこまでも見透かそうとする、優しい瞳。
「無理してない。僕が、回りたいんだ。優愛と、二人で」
僕の真剣な眼差しに、優愛は何も言わずに、でも、確かに、こくりと頷いてくれた。
その顔は、夕焼けよりも、ずっと赤く染まっていた。
チャイムが、僕らの沈黙を破るように、もう一度、鳴り響いた。
僕たちの、センチメンタルな夕暮れは、まだ、終わりそうになかった。




