第五十八話 夕暮れの教室
「――だから、この板の角度をこうすれば、もっと安定するって!」
「おお! なるほど! さすが副委員長!」
涼風祭を来週に控えた、金曜日の放課後。
僕らの教室は、ペンキの匂いと、どこか焦りの混じった活気のある声で満たていた。
「やばい、このペースで間に合うのか!?」
カフェのカウンターになる板の組み立てにてこずっていた希望が、大げさに叫ぶ。
「大丈夫だって。お前がちゃんと塗れてればな」
「当たり前だろ! 俺の芸術的センスをなめるなよ!」
そう言って希望が見せてきた看板は、見事に絵の具がはみ出していた。
「あーあ、希望。またやっちゃってる」
美褒が呆れたように笑いながら、ウェットティッシュで器用に修正していく。
その賑やかなやり取りを横目で見ながら、僕は自分の役割に戻った。
楽しい。心から、そう思える。
時間がない中で、みんなで一つのものを創り上げていく、この一体感。そして、その中心には、いつも優愛がいた。
「よし、こっちは大体できたかな。溢喜、ちょっと手伝ってくれる?」
優愛が、壁に貼る大きな背景用の布を広げながら、僕を呼んだ。
「ああ」
二人で布の端と端を持ち、壁に画鋲で留めていく。
「もうちょっと、右かな」
「こっちか?」
「ううん、行き過ぎ。もうちょい左」
僕の指示に合わせて、優愛が一生懸命、背伸びをしている。
それでも、僕より頭一つ分くらい低い彼女の頭頂部が、僕の視界に入ってくる。
(……ちっちゃくて、なんか、可愛いな)
普段、しっかり者の彼女が見せる、こういう不器用な一面に、心臓が不意に、きゅっとなる。
「……あ、ごめん。そこ、曲がってる」
優愛が、僕が刺した画鋲のすぐそばを直そうと、ぐっと手を伸ばした、その時だった。
バランスを崩したのか、彼女の体が、ふらり、と僕の方へ傾いてきた。
「わっ……!」
「おっと……!」
僕は反射的に、彼女の肩をぐっと支えた。
必然的に、顔と顔が至近距離になる。
目の前には、驚きで見開かれた、優愛の大きな瞳。
夕方のオレンジ色の光が、窓から差し込んでいる。
その光が、彼女の真っ直ぐな黒い瞳に吸い込まれて、まるで星が瞬いているみたいに、キラキラと輝いていた。
(……綺麗だ)
思わず、息を呑む。
時間がないことも、周りの喧騒も、一瞬だけ、全てが頭から消え去った。
「……ぷっ」
不意に、優愛が吹き出した。
「ご、ごめん。なんか、溢喜の顔、すごいことになってる」
「なっ……!」
言われてみれば、僕は息を止めて、カチコチに固まっていた。
「優愛だって、顔、真っ赤だぞ」
僕がそう言い返すと、彼女は「溢喜のせいでしょ!」と、僕の胸を軽く叩いた。
「おーい、お二人さん! 青春ドラマはいいから、手、動かせー! 時間ないぞー!」
希望の野次が飛んできて、僕らは慌てて距離を取った。
やがて、完全下校時刻のチャイムが鳴り響き、僕らは作業を切り上げる。
他のメンバーは慌ただしく帰っていき、最後に残った僕と優愛で、教室の戸締りをした。
「……ありがとう、今日も」
誰もいなくなった教室で、優愛がぽつりと言った。
「ううん。僕の方こそ。なんか、楽しいな、こういうの」
「うん、私も。……溢喜が、副委員長で、本当によかった」
夕焼けに染まる教室。
作りかけのカウンターや、散らかった道具。
でも、この乱雑な空間が、僕らが今日一日、確かに同じ時間を共有し、同じ目標に向かって必死に頑張った証のように思えた。
「……帰るか」
「うん」
帰り道。
いつもより、ほんの少しだけ、僕らの歩く距離は近かったかもしれない。
繋いでいない方の手が、触れそうで、触れない。
そのもどかしい距離感すら、今はたまらなく愛おしい。
僕は、溢れ出しそうになる気持ちを必死に抑えながら、この忙しくて、でも幸せな時間が、一日でも長く続くようにと、心の中で願っていた。




