第五十一話 いつも通りで、いつもと違う朝
僕らの家族を縛っていた長い呪いが解けてから、初めて迎える月曜日の朝。
いつもと同じ時間に玄関のドアを開けると、そこには、やっぱりいつもと同じタイミングで優愛が出てきた。
「おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
僕らの心の中にはもう、何の重荷もなかった。
昨日までの緊張感が嘘のように、僕たちは自然に笑い合う。
「……って、ちょっと待ちなさい」
歩き出そうとした瞬間、優愛の目がすっと細くなる。
まずい、この目は、僕が何かをやらかした時の目だ。
「そのシャツの襟、ちゃんと直ってない。あと、寝癖も一本、変な方向に跳ねてる」
「え、マジで?」
僕が慌てて首元に手をやると、優愛は「もう、しょうがないなあ」と小さくため息をつきながら、僕の前に立った。
そして、すっと手を伸ばして、僕の制服の襟を直してくれる。
……近い。
シャンプーの甘い香りと、真剣な眼差し。
心臓が、ドクン、と大きく鳴った。
「……よし。これでよし」
満足そうに頷いた優愛は、今度は僕の頭に手を伸ばし、ぴょんと跳ねていた髪を優しく撫でつけた。
その指先の感触に、全身の血液が沸騰しそうになる。
「……あ、ありがと」
なんとかそれだけ言うのが、僕の精一杯だった。
優愛は「どういたしまして」と、いたずらっぽく笑う。
(……なんか、今日の優愛、いつもより、甘いっていうか……)
昔から面倒見は良かったけど、今のは、なんだか空気が違う。僕が意識しすぎなだけだろうか。
「さあ、行こっか」
「……うん」
僕たちは並んで、学校へと歩き出す。
いつもと同じように叱られて、いつもと同じように世話を焼かれている。
でも、その一つ一つのやり取りが、今までとは全く違う意味を持って、僕の胸を締め付けた。
昼休み。いつもの四人で集まっていると、希望が僕の顔を見て、不思議そうに言った。
「あれ、溢喜。お前、今日なんか顔赤くないか?」
「え!? そ、そうか?別に、普通だろ!」
「いや、赤いって。なんか、朝からずっとニヤニ-ヤしてるし。ついに、おかしくなったか?」
「なってねえよ!」
僕がわたわたしていると、隣に座る優愛が、僕にだけ聞こえるような小さな声で、くすくすと笑った。
「……嬉しかったの?」
「……うるさい」
僕は、耳まで熱くなるのを感じながら、そっぽを向くことしかできなかった。
その反応を見て、優愛はさらに楽しそうに笑っている。
放課後。
二人きりの帰り道。
「ねえ」
優愛が、ふいに僕の顔を覗き込んできた。
「この前の約束、覚えてる?」
「え? ああ、また二人で出かけるって約束だろ」
「うん。行き先、考えてみたんだけど」
早いな、と驚く僕に、優愛は楽しそうに続ける。
「水族館と、映画はもう行ったでしょ?」
「まあ、そうだな」
「だから、今度は……動物園、とかどうかな? 象とか、キリンとか、見たいなって」
意外な提案だった。
でも、彼女が僕のために一生懸命考えてくれたことが、伝わってくる。
「……いいな、それ。行こう、動物園」
僕がそう言うと、優愛は「ほんと!?」と、子供みたいに嬉しそうな顔をした。
その無邪気な笑顔が、たまらなく愛おしくて、僕はどうしようもなく、言葉を続けていた。
「ああ。楽しみだな。……優愛と、二人で行くの」
「え……」
今度は、優愛が目を見開いて、固まる番だった。
僕が、こんなにはっきりと「二人で」ということを強調するなんて、今までなかったからだろう。
みるみるうちに、彼女の頬が夕焼けよりも赤く染まっていく。
「……う、うん。楽しみ、だね」
か細い声でそう言って、俯いてしまった彼女を見て、僕は心の中で小さくガッツポーズをした。
いつも、やられてばっかりじゃない。
家の近くの角で、いつも通り足を止める。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
いつもと同じ挨拶。
いつもと同じ別れ道。
でも、僕の心の中は、もうどうしようもないくらいの高揚感で満ちていた。
部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
天井を見上げながら、僕はさっきの優愛の反応を思い出して、ニヤニヤが止まらなかった。
好きだ。
その気持ちは、もう隠しようがないくらいに、僕の中から溢れ出している。
告白は、まだ先でいい。
今はただ、この溢れ出しそうな気持ちを、一つ一つの瞬間に込めて、彼女に伝え続けたい。
僕は、次の日曜日のことだけを考えて、幸せなため息をついた。




