第三十六話 ふたりの作戦会議
「今まで通り」を心がける、と決めた翌朝。
僕は玄関のドアノブに手をかけ、一つ深呼吸をした。
大丈夫。
いつも通りだ。
ドアを開けると、昨日と同じタイミングで優愛が出てくる。
「おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
昨日よりは、少しだけ自然に返せただろうか。
優愛は特に何も変わった様子はなく、にこりと微笑んで僕の隣に並んだ。
「今日の朝ごはん、何だった?」
「え? あー……目玉焼き」
「私はスクランブルエッグだった。なんか負けた気分」
「勝ち負けなのか、それ」
他愛ない会話。
昨日までの僕なら、ただ聞き流していたかもしれない言葉の一つ一つが、今はなぜか少しだけ特別に聞こえる。
そうだ、これが「今まで通り」だ。
そう自分に言い聞かせながら、僕たちは学校へと向かった。
授業中も、僕の挑戦は続いた。
数学の時間、先生に指されて席で固まっていると、右隣の優愛が、教科書の影でそっとノートの端に答えのヒントを書いて見せてくれた。
今までなら「サンキュ」と心の中で思うだけだった場面。
今日は、先生の注意が逸れた隙に、彼女の方を向いて「助かった」と小声で伝えた。
優愛は少し驚いたように目を丸くして、それから嬉しそうに小さく頷いた。
昼休みになると、僕たちの席が固まっている窓際の一番後ろは、自然と四人のための空間になった。
希望と美褒がくるりと後ろを向き、僕と優愛の机に自分たちの机をくっつける。
「そういえばさー」
希望が唐揚げを頬張りながら、にやにやして僕たちを見た。
「土曜日、二人で映画行ったんだって? どうだったんだよ、例の修行の方は?」
「ぶっ!?」
思わず、飲んでいたお茶を吹き出しそうになる。
「なっ、なんでお前がそれを……!」
「うちの親父、光道勤めなんだよ。そしたら昨日、優誓社長がうちの親父に『うちの孫娘と溢喜くんがついにデートでな!』って、めちゃくちゃ上機嫌で自慢してたらしくてさ。それを俺が親父から聞いたってわけ」
「あのおじいちゃん、会社でも言ってるのか……!」
僕は頭を抱えた。
もう秘密も何もない。
「それで? どうだったの?」
希望がさらに突っ込んでくる。
僕がしどろもどろになっていると、美褒が呆れたように言った。
「もう、希望は野暮なんだから。そんなの、楽しかったに決まってるでしょ? ね、ゆーちゃん」
「え……あ、うん。……楽しかったよ。すごく」
美褒に話を振られた優愛は、少し照れながらも、まっすぐ僕を見てそう言った。
その一言に、希望は「おー!」と囃し立てる。
僕は、もう顔が熱くて何も言い返せなかった。
放課後。
賑やかな昼休みとは打って変わって、二人きりの帰り道。
少しだけ落ち着いた空気の中、優愛の方から口を開いた。
「そういえば、この前の話なんだけど」
「この前の話?」
「うん。はとこ会、次どうする?って話」
ああ、そういえばそんな話も出ていた。
ショッピングモールに行ったのは、みんなが集まれる一番近い場所がそこしかなかったからだ。
次は、ちゃんと計画を立てたいと、美褒も言っていた。
「美褒が言い出しっぺで、『次は紅葉を見に行きたい』って言ってたでしょ? あの話、私たちが具体的に企画しないかなって」
上目遣いで尋ねる優愛に、断る理由なんてあるはずもなかった。
「もちろん。やろうよ、二人で」
僕がそう言うと、優愛はぱあっと顔を輝かせた。
「ほんと!? よかった!」
僕たちは早速、帰り道の途中にあるファミレスに寄って、ノートを広げた。
「言い出しっぺは美褒だけど、計画するのは僕たち、か。なんか面白いな」
僕がそう言うと、優愛は「ふふっ」と笑った。
前回は急だったから、ショッピングモールになったけど、やっぱり自然が多いところがいいよね」
「じゃあ、美褒が言ってた通り、紅葉の綺麗な公園とか? みんなでお弁当持って」
「いいね! 小さい子たちも、広い場所の方が飽きないかも」
「好き」という気持ちを自覚してから、僕は優愛のために何ができるだろう、とずっと考えていた。
でも、答えはもっと簡単なことだったのかもしれない。
こうして、隣に座って、同じノートを覗き込んで、一つの目標に向かって一緒に頭を悩ませる。
彼女が楽しそうにアイデアを出す横顔を見ているだけで、僕の心は温かいもので満されていく。
これが、今の僕にできること。
そして、僕が一番したいこと。
「ねえ、この公園、ボートにも乗れるって書いてあるよ」
「へえ、面白そうじゃん」
特別な言葉はいらない。
ただ、この「今まで通り」の延長線上にある、新しい時間を、大切に積み重ねていけばいい。
僕はペンを取り、優愛の指差した公園の名前に、大きな丸をつけた。




