第三十五話 好き、のち、幼馴染
「……好きだ、たぶん」
土曜の夜、天井に向かって呟いた言葉が、月曜の朝になっても頭の中でずっと反響している。
眠い目をこすりながら制服に着替える。
鏡に映る自分の顔が、なんだかいつもより間抜けに見えた。
(認めたのはいいけど、これからどうすればいいんだ……?)
今まで「幼馴染」という便利な言葉の陰に隠れていた感情が、はっきりと名前を持ってしまった。
それは、まるで名前の分からない生き物をずっと部屋で飼っていたのに、いきなり図鑑で「ライオン」だと判明してしまったような、そんな心境だった。
玄関のドアを開けると、いつもと同じように、ちょうど隣の家のドアも開いた。
「おはよう、溢喜」
いつも通りの優愛の笑顔。
土曜日の特別なデートのことなんて、まるでなかったかのように自然な、日常の笑顔。
「お、おはよう……」
僕は、うまく笑えなかった。
「好きだ」と自覚してしまった今、彼女の顔をまっすぐに見ることができない。
「どうしたの? まだ眠い?」
「あ、いや、うん、まあ……」
しどろもどろになる僕を、優愛は不思議そうに小首を傾げて見ている。
その仕草一つで、また心臓がうるさくなる。
ダメだ、完全に意識してしまっている。
学校までの道も、教室に入ってからも、僕は優愛とまともに話すことができなかった。
希望に「お前、今日なんか変だぞ。優愛様とケンカでもしたのか?」と心配されたが、「別に、そういうんじゃない」と曖昧に返すのが精一杯だった。
昼休み。
僕が一人で席に座ってため息をついていると、ひょこっと隣から顔を覗き込まれた。
「溢喜、ちょっといい?」
声の主は、美褒だった。
「どうしたの? ゆーちゃんとなんかあった?」
おっとりとした口調だが、その目は全てを見透がしているようにキラキラしている。
「いや、別に、何も……」
「ふーん。でも、今日の溢喜、ゆーちゃんのこと全然見てないよね。この前の土曜日、あんなに楽しそうだったのに」
「……見てたのか」
「見てたよー。二人とも、すっごくお似合いだった」
美褒はそう言うと、にこりと笑って続けた。
「ゆーちゃん、今日の朝、すっごく嬉しそうだったよ。『土曜日は本当に楽しかった』って、私にだけこっそり教えてくれた」
「え……」
「なのに、当の本人がそんなんじゃ、ゆーちゃん、不安になっちゃうかもよ?『私、何か悪いことしちゃったかな』って」
美褒の言葉が、胸に突き刺さった。
そうだ。僕が自分の気持ちに戸惑っている間に、優愛を不安にさせているのかもしれない。
土曜日にあんなに嬉しそうだった笑顔を、僕が曇らせてどうするんだ。
「……どうしたら、いいと思う?」
思わず、弱々しい声で相談してしまった。
美褒は、待ってましたとばかりににっこり笑った。
「簡単だよ。今まで通りにすればいいの」
「今まで通りって……」
「うん。溢喜は、そのままでいいんだよ。変に意識しないで、いつもみたいにゆーちゃんに話しかけてあげなよ。きっと、それだけで安心するから」
その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。
そうだ。
僕がやるべきことは、今までと何も変わらない。
僕の気持ちがどうであれ、優愛が笑ってくれるように、不安にならないように、隣にいてあげること。
それが、今の僕にできる唯一のことだ。
放課後。
僕は意を決して、一人で帰ろうとしていた優愛の背中に声をかけた。
「あ、あのさ、優愛!」
「溢喜? どうしたの?」
振り返った優愛の顔は、少しだけ不安そうに見えた。
やっぱり、僕のせいで気にさせていたんだ。
「いや、その……一緒に、帰らないか?」
僕がそう言うと、優愛は驚いたように目をぱちくりさせた。
そして、次の瞬間、ぱあっと花が咲くように笑った。
「……うん!」
その笑顔を見た瞬間、僕の心の中のモヤモヤが、すっと晴れていくのを感じた。
僕たちは自然と並んで、いつもの帰り道を歩き出す。
「……ねえ」
少し先を歩いていた優愛が、ふと振り返って、いたずらっぽく笑った。
「ん?」
「さっき、わざわざ『一緒に帰らないか?』なんて言ってたけど、私たち、いつも一緒に帰ってるよね?」
「う……」
図星を突かれて、僕は言葉に詰まる。
「……まあ、そう、だけど。今日は、なんか、その……改めて、言っておこうかなって」
しどろもどろになる僕を見て、優愛は「ふふっ」と楽しそうに笑った。
夕焼けに照らされた、いつもの帰り道。
でも、今日の僕の心は、昨日までの僕とは少しだけ違っていた。
「好きだ」という気持ちを抱えたまま、それでも「幼馴染」として隣を歩く。
それは少しだけ苦しくて、でも、彼女がこうして笑ってくれるなら、それ以上に温かい。
この気持ちとどう向き合っていくのか、まだ答えは出ないけれど。
今はただ、この笑顔を曇らせないように。
僕は、また一歩、隣を歩き始めた。




