第三十三話 名前のない特別な一日
僕たちが選んだのは、駅前の路地裏にひっそりと佇む、小さなイタリアンレストランだった。
煉瓦造りのお洒落な外観に、僕は少しだけ気圧されたけれど、優愛は「わ、素敵なお店だね」と嬉しそうに微笑んだ。
木の扉を開けると、カラン、と軽やかなベルの音が鳴る。
店内は落ち着いた照明で照らされ、テーブルには小さな花が飾られていた。
僕らが案内されたのは、窓際の二人掛けの席。ガラス越しに、賑やかな街路樹の緑が見える。
メニューを開きながら、僕らはさっき観た映画の感想を改めて話し始めた。
「あのアクションシーン、すごかったな。CGだって分かってるのに、本物みたいで」
「うん。でも、主人公が最後に言ったセリフ、ちょっと泣きそうになっちゃった」
「あー、分かる。あの場面はぐっときた」
さっきまでの気まずさが嘘のように、会話が弾む。
いつもの僕たちみたいだ。
でも、やっぱり何かが違う。
ふと、テーブルの上の自分の手を見て、映画館で繋いだ優愛の指先の温かさを思い出してしまう。
慌てて水を飲むと、隣の席のマダムたちの楽しそうな笑い声がやけに大きく聞こえた。
食事を終え、店を出る頃には、太陽が少しだけ西に傾き始めていた。
「美味しかったね」
「うん、また来たいな」
並んで歩きながら、どちらからともなく同じことを考えていたのが嬉しかった。
「この後、どうする? もう帰る?」
僕が尋ねると、優愛は少しだけ名残惜そうな顔をした。
「ううん……。もし溢喜がよかったら、もう少しだけ、どこか寄ってかない?」
その言葉を待ってました、とばかりに僕は頷いた。
「もちろん。どこか行きたいところ、ある?」
「んー……」
優愛は少し考えた後、僕の顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「じゃあ、溢喜に任せようかな。この後どこ行くか、ちゃんと考えてきてくれたんでしょ?」
その信頼しきったような笑顔に、僕の心臓が小さく跳ねる。
「……まあ、一応は」
僕はそう言って、駅前の大きな雑貨屋を指差した。
「じゃあ、あそこ見てみない? 面白いもの、売ってるかもしれないし」
「いいね!」
雑貨屋の中は、カラフルな小物や文房具、ユニークなインテリアで溢れていた。
僕たちは特に目的もなく、棚から棚へとゆっくり見て回る。
優愛が動物の形をしたマグカップを手に取って「これ可愛い」と笑ったり、僕が変な顔の描かれたクッションを見つけて二人で吹き出したり。
そんな何でもない時間が、今はすごく特別で、宝物みたいに思えた。
店の奥、アクセサリーが並ぶコーナーで、優愛がふと足を止めた。
ガラスケースの中には、小さな星のモチーフがついた、華奢なブレスレットが飾られている。
「……綺麗」
ぽつりと呟いた彼女の横顔を、僕はそっと盗み見た。
夕方の光がガラスケースに反射して、彼女の瞳をキラキラと輝かせている。
(……いつか、プレゼント、したいな)
そんなことを、自然に考えている自分がいた。
まだ早いかもしれない。でも、いつか必ず。
店を出ると、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。
「楽しかった。一日、あっというと間だったね」
優愛が、少し寂しそうに言った。
「うん。……また、来ような。こういうの」
僕がそう言うと、彼女は驚いたように僕の顔を見て、そして、今日一番の笑顔で頷いた。
「うん。また、絶対」
繋いでいない方の手が、触れ合えそうなほど近くにある。
僕たちの初めての、名前のない特別な一日は、最高の形で終わろうとしていた。
そして、これが終わりではなく、新しい始まりなのだと、僕も優愛も、きっと同じように感じていた。




