第三十二話 僕の知らない君
約束の土曜日は、これ以上ないほどの快晴だった。
僕はクローゼットの前で、かれこれ三十分は仁王立ちしていた。
(こっちのパーカーは、休日に急に呼び出されて近所のスーパーに行く時と同じだし、こっちのチェックシャツは、この前のはとこ会で着たやつだ……)
普段、優愛と出かける時の服装が、今日に限ってはどれも「不正解」に思える。
幼馴染として過ごしてきた時間の分だけ、僕のクローゼットは「日常」の服で埋め尽くされていた。
鏡に映る自分と睨めっこしながら、ため息をつく。
たかが服を選ぶだけで、心臓がこんなにもうるさい。
結局、一番無難な白のTシャツに、ほとんど着たことのない黒のジャケットを羽織るという、自分なりに精一杯の「特別」な格好に落ち着いた。
それでも、寝癖だけは念入りに直し、僕は逃げ出すように家を出た。
待ち合わせ場所の駅前広場。噴水の前に立ち、スマホの画面を何度も確認する。
約束の時間まで、あと五分。
いつもなら優愛の方が先に来ていることが多いのに、今日はまだ姿が見えない。
(もしかして、服装、変だったかな……)
今さらながら不安が押し寄せる。そわそわと辺りを見回していた、その時だった。
「お待たせ。待った?」
聞き慣れた声に振り返ると、そこにいたのは僕の知らない「優愛」だった。
いや、優愛は優愛だ。
でも、僕が知っているどの優愛とも違う。
休日に「ちょっと付き合って」と急に呼び出されて、近所のスーパーへ買い物に行く時の、ラフなTシャツにジーンズ姿じゃない。
はとこ会での、少しだけお洒落なニット姿とも違う。
ふわりとした袖が可愛らしい白いブラウスに、風が吹くたびに裾が優雅に揺れる、落ち着いたチェック柄のロングスカート。
足元はいつも履いているスニーカーではなく、少しだけヒールのあるストラップシューズ。
そして何より、いつもは邪魔にならないように一つに結んでいることが多い髪を、今日は綺麗に下ろしている。
なんていうか……すごく、綺麗で、知らない誰かみたいに大人びて見えた。
「……いや、僕も今来たとこ」
見とれていたのを悟られないように、なんとかそれだけ返すのが精一杯だった。
「そっか、よかった」
優愛はそう言って、少しだけはにかんだ。
そして、僕の服装を上から下までちらりと見て、ほんの少しだけ目を見開く。
「……溢喜も、なんか、いつもと違うね」
「そ、そうかな。ジャケットなんて、あんまり着ないから」
「うん。……かっこいいと思う」
消え入りそうな声でそう言った優愛は、自分の言葉に照れたように、さっと視線を逸らした。
その仕草を見て、僕は確信する。
優愛も、今日のこの日を、僕と同じように「特別」な日だと思ってくれている。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
映画館までの道は、たったの数分のはずなのに、やけに長く感じた。
何を話せばいいのか分からない。
隣を歩く優愛のスカートが、時々僕のズボンに触れるだけで、意識が全部そこに持っていかれてしまう。
ふと見ると、優愛が緊張する時に無意識にする癖(バッグのストラップを指でくるくると巻いている)に気づいた。
(あ、優愛も、緊張してるんだ)
その小さな発見が、僕の心を少しだけ軽くしてくれた。
映画館に着き、チケットとポップコーンを買う頃には、少しだけいつもの調子が戻ってきた。
「ポップコーン、キャラメル味でよかった?」
「うん、ありがとう。溢喜も食べるでしょ?」
「もちろん」
そんな他愛ないやり取りが、今はすごく心地よかった。
上映が始まり、場内が暗闇に包まれた瞬間、僕は再び隣にいる優愛の存在を強く意識した。
スクリーンでは派手な爆発とカーチェイスが繰り広げられている。
面白い。面白い、はずなのに。
僕の意識は、肘掛けに置かれた優愛の指先や、時々「わっ」と小さく声を漏らす彼女の反応にばかり向いていた。
怖いシーンで、彼女がほんの少しだけ身を縮める気配まで伝わってくる。
物語がクライマックスに差し掛かった時、ポップコーンを取ろうとした僕らの手が、肘掛けの上で偶然、触れた。
「……っ」
二人とも、同時にびくりと肩を揺らす。
優愛が慌てて手を引っ込めようとするのを、僕はなぜか、衝動的に、その手の上から自分の手でそっと押さえていた。
優愛が息を呑むのが、暗闇の中でも分かった。
僕も自分の大胆な行動に驚いて、心臓が口から飛び出しそうだった。
でも、手は離せなかった。拒絶されなかったことに安堵しながら、そっと指を絡めてみる。
優愛は驚いたように少しだけ指先に力を込めたが、振りほどくことはせず、やがておずおずと僕の指を握り返してくれた。
スクリーンの中の主人公が何を叫んでいるのか、もう僕の耳には届かない。
ただ、繋がれた手の温かさと、彼女の小さな震えだけが、僕の全てだった。
映画が終わり、場内が明るくなる。
僕らはどちらからともなく、パッと手を離した。
エンドロールが流れる中、どちらも何も言えずに、ただスクリーンを見つめていた。
熱くなった顔を、優愛に見られたくなかった。
映画館を出て、昼の眩しい光の中に立つ。
「……お、面白かったね」
「う、うん。すごかった」
お互いに、どこか上の空で感想を言い合う。
優愛が照れている時に少しだけ早口になる癖が出ている。
それがなんだか可愛くて、僕は少しだけ笑ってしまった。
「この後、どうする?」
僕が尋ねると、優愛は少し考えた後、僕の顔を見て、いたずらっぽく笑った。
「お腹すかない? 私、美味しいパスタが食べたいな」
その笑顔は、いつもの僕の知っている優愛で、僕は心の底からほっとした。
「いいね。じゃあ、どこかいいお店ないか、探そうか」
僕の返事に、優愛は「うん!」と嬉しそうに頷いた。
繋いでいた手は離れてしまったけれど、僕らの距離は、この映画の二時間と、幼馴染だからこそ気づけた沢山の「いつもとの違い」で、確実に縮まっていた。
僕たちの初めてのデートは、まだ始まったばかりだった。




