第二十九話 優しさの理由
「ほほう~? それで溢喜も一緒なのか!」
優誓おじいちゃんの朗々とした声が、玄関ホールに響き渡った。
結局、おじいちゃんたちの用件に僕も同席することになり、通されたリビングの空気に気圧される。
革張りのソファにどっしりと腰を下ろした四兄弟と、テーブルを挟んで向かい合う僕たち。
隣に座る優愛の緊張が、かすかに伝わってくるようだった。
先ほどまで手にしていたホットコーヒーの温もりは、もうどこかへ消えてしまっていた。
「それで、本題に入るが……」
場の空気を引き締めるように、優誓おじいちゃんが低いトーンで口火を切った。
一体どんな話が始まるのかと身構えた僕の耳に、存外な言葉が届く。
「はとこたちとは、仲良くなれたか?」
あまりに真面目な顔で、あまりに普通のことを聞かれ、僕は思わず拍子抜けしてしまった。
「ええ。おじいちゃんたちのおかげ。ありがとう」
優愛が、お手本のような笑顔で答える。
けれど、その声にはどこか薄い膜が張られているようで、心の底からの言葉ではないことが僕には分かった。
確かに、休日にはとこたちと集まるのは少し疲れる。
でも、賑やかで、なんだかんだ言って楽しかったのも事実だ。
「それはよかった」
満足そうに頷く優誓おじいちゃんの横から、栄誉おじいちゃんが鋭い声で割って入った。
「だが、何のためにはとこたちと親しくなっているのか、その目的を決して忘れるなよ」
そうだ。栄誉おじいちゃんの言う通りだ。
僕らがこうして集められているのは、光道家の跡継ぎを決めるため。
もし、とっくに跡継ぎにふさわしい男の子がいたら、こんな回りくどいことはしなかったはずだ。
男尊女卑の気風が残るこの四兄弟なら、なおさら。
僕らが顔を合わせる機会なんて、一生なかったかもしれない。
だけど、どうしてわざわざ仲良くさせるんだろう。
以前、「性別に関係なく、最も優秀な者が継ぐべきだ」と宣言していた。
それなら、すぐにでも決められるはずじゃないか。
親戚を見渡せば、優秀な人間なんていくらでもいるだろうに。
……まさか、候補者全員が優秀だったとか?
いや、それはない。
少なくとも僕は、優秀とは程遠い人間だ。
じゃあ、一体どうして……。
僕が思考の海に沈んでいると、不意に優愛が凛とした声で言った。
「大丈夫、心配しないで。みんなと仲良くなった方が、お互いに話し合いやすいって分かってるから」
その言葉に、僕ははっとした。
そうだ。僕もはとこたちと初めて会った時は、緊張してうまく話せなかった。
だけど、この前の会合では、前よりずっと自然に笑い合えた気がする。
優愛は、ちゃんと分かっていたんだ。
僕が感心していると、それまで黙って腕を組んでいた僕の祖父、真実おじいちゃんが、ふっと口元を緩めた。
「優愛、君は本当に賢い子だ。だけど、私たちが考えているのは、それだけじゃない」
「え……?」と、優愛が意外そうな顔をする。
真実おじいちゃんは、僕と優愛を交互に見ながら、ゆっくりと続けた。
「私たち四兄弟はな、若い頃、それはもう仲が悪くてな。誰が一番優れているか、誰が親父に認められるか、そればかり競い合っていた。おかげで、何度も家業を潰しかけたもんさ」
初耳の話に、僕らはただ黙って耳を傾ける。
「そんな私たちを一つにしたのは、たった一つのことだった。この『光道』の家を、未来に繋いでいきたいという想いだ。一人ではただの意地っ張りでも、四人集まれば、どんな壁も越えられた」
おじいちゃんの言葉に、他の三人も深く頷いている。
「最初私たちは勘違いしていたが、その考えは間違いだと今は思っている。私たちが跡継ぎに求めるのは、飛び抜けた才能じゃない。ましてや、性別でもない。バラバラになりがちな一族を、一つに束ねられる『器』だ。そして、一人で背負い込まず、周りを頼り、頼られることができる『信頼』だ」
優誓おじいちゃんが、優愛の目をまっすぐに見つめて言った。
「だから、仲良くしろと言った。競い合うだけでなく、互いを認め、支え合う関係を築けるかどうか。それこそが、俺らが見ている『優秀さ』の正体だよ」
その言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。
優愛が僕に言った「優しくなったね」という言葉が、頭の中で響く。
頼れる感じがする、と。
僕は無意識のうちに、重圧を抱える優愛の隣で、少しでもその支えになりたいと思っていたのかもしれない。
「……そっか」
ぽつりと、優愛が呟いた。
その瞳から、張り詰めていた何かが、すうっと溶けていくのが見えた。
「なんだ。それなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
そう言って、彼女はふわりと笑った。
それは、今日の帰り道に見せてくれた、心からの穏やかな笑顔だった。
その表情に、僕もつられて頬が緩む。
なんだ、そうだったのか。
僕らが悩んでいた問題の答えは、もっとずっと、シンプルで温かいものだったんだ。
「跡継ぎは、まだ決めん」
優誓おじいちゃんが、芝居がかった咳払いをして言った。
「お前たちがこれからどんな関係を築いていくか、この年寄りたちに、もうしばらく楽しませてもらうとするさ」
その言葉は、まるで僕たちの未来へのエールのように聞こえた。
話がまとまり、おじいちゃんたちが立ち上がって玄関へ向かおうとした、その時だった。
ふと、普段は物静かな爽快おじいちゃんが僕のそばに立ち止まり、低い声で言った。
「溢喜くん、少し耳を」
自分から話しかけてくるなんて珍しいな。
そう思いながら彼の口元に耳を寄せると、想像もしなかった言葉が囁かれた。
「君が優愛くんのことを好いていると優誓兄さんに伝えたのは、私だ。……すまなかったね」
……え?
え、えぇぇぇ?!
衝撃で、一瞬呼吸が止まる。
まさか、四兄弟の中で一番穏やかで物静かなこの人が、噂の発信源だったなんて!
僕が驚きで固まっていると、爽快おじいちゃんは僕の心を読むように、少しだけいたずらっぽく続けた。
「先日、美褒くんの部屋から楽しそうな声が聞こえてきてね。つい、年甲斐もなく聞き耳を立ててしまった。……まあ、少しだけ、君たちの背中を押してやりたくなったのさ」
なんてこった。
全部お見通しか。
爽快おじいちゃんはそう言うと、僕の肩を軽くポンと叩き、何事もなかったかのように他の兄弟たちの後を追っていった。
おじいちゃんたちが黒いセダンで帰っていくと、夜の住宅街に再び静けさが戻ってきた。
玄関先で並んでそれを見送りながら、優愛がくすくすと笑う。
「なんだか、嵐みたいだったね」
「まったくだよ」
僕らは顔を見合わせて、また笑った。
胸の中にあった重たい霧が、すっかり晴れてしまったようだ。
「じゃあ、送ってくれてありがと。また明日ね」
「うん。また明日」
手を振って家のドアに消えていく優愛の背中を見届ける。
僕は自分の家へと歩き出しながら、胸の奥に残った熱をそっと確かめた。
コーヒーの温もりと、優愛の笑顔。そして、少しだけ見えた未来への光。
その余韻が、夜の帰り道を、不思議と明るく照らしていた。




