第百九十一話 三が日の終わり、乙女の部屋の検問所
翌朝、一月三日。
世間では「お正月休み」のピークが過ぎ、明日からの仕事始めや学校再開に向けて、街の空気が少しずつ日常へと戻り始める頃だ。
僕も例に漏れず、コタツの中でダラダラとテレビを見て過ごしていた。
『溢喜、今からうち来れる?』
『製本した「しおり」、見せたいから!』
十時過ぎ。優愛からのメッセージが静寂を破った。
年末に二人で原稿を作った、スキー旅行のしおり。
優愛が「清書してコピーしてくる」と言っていたやつだ。
必要な連絡事項はすでにグループのメッセージで共有済みだけど、紙のしおりは流満ちゃんからの「遠足みたいに持ちたい!」というリクエストに応えて、当日バスの中で配ることになっている。
『了解。すぐ行く』
僕はジャージから部屋着のスウェットに着替え(隣に行くだけだから気合は入れない)、玄関を出た。
徒歩十秒。海波家のチャイムを鳴らす。
「はーい! どうぞ、上がって!」
出迎えてくれた優愛は、ゆったりとしたニットワンピ姿だった。
髪を下ろし、リラックスした雰囲気だが、その表情はどこか勝ち誇ったように輝いている。
「お邪魔します。……おじさんたちは?」
「初詣に行ってるよ。近所の神社じゃなくて、ちょっと遠くの大きいところまで」
「なるほど。じゃあ、今は優愛だけか」
「そう。だから……私の部屋、行こ?」
優愛が僕の手を引き、階段を上がる。
幼馴染の家だから、昔から何度も入ったことはある。
けれど、「彼氏」として、しかも親がいない状況で彼女の部屋に入るというのは、何度経験しても妙な緊張感がある。
ガチャリ、とドアが開く。
ふわりと、フローラルの甘い香りが鼻をくすぐった。
白とピンクを基調とした、清潔感のある部屋。
勉強机、本棚、そして可愛らしいぬいぐるみが置かれたベッド。
僕の部屋とは決定的に違う「女の子の聖域」だ。
「適当に座ってて。今、持ってくるね」
優愛に促され、僕は部屋の中央にある小さなローテーブルの前に座った。
カーペットがふかふかで心地いい。
「ジャーン! これが完成品です!」
優愛が得意げに差し出したのは、カラフルな表紙が付いた小冊子だった。
表紙には、僕らが苦心して描いた(主に優愛が修正した)雪だるまと、スキー板のイラスト。
タイトルは『はとこ会だよ! 全員集合! 冬のスキー合宿のしおり』。
「すげえ……! 完全に売り物レベルじゃん」
「でしょ? ちゃんと厚紙で表紙つけて、中綴じホッチキスで止めたの。これなら『可愛いのがいい!』っていう流満ちゃんのリクエスト、合格できるかな?」
「絶対合格だよ。むしろ期待以上で、大喜びすると思う」
ページをめくると、年末にコタツで考えた行程表や持ち物リストが、綺麗にレイアウトされている。
手書きの温かみを残しつつ、読みやすく整理されたその一冊には、優愛の几帳面さと愛情が詰まっていた。
「ありがとう、優愛。年末年始の忙しい時に、仕上げてくれて」
「ううん。原稿は溢喜と一緒に作ったしね。それに、私こういうの作るの好きだから」
優愛は嬉しそうに笑い、僕の隣にぺたんと座った。
肩と肩が触れ合う距離。
部屋には二人きり。
甘い空気が流れ始めた――と思った、その時だった。
「さて、と」
優愛の声色が、ふっと変わった。
彼女は机の引き出しから、分厚い冊子を取り出し、ドン! とテーブルの上に置いた。
「しおりの確認が終わったところで……次は、こっちの確認ね?」
置かれたのは、冬休みの課題『数学Ⅱ・B 問題集』。
そして、『英語長文読解』。
しかも、僕のものだ。
いつから持ってたんだ?!
「……え?」
「二十九日に少し進めたけど、まだ半分以上残ってるよね? スキー旅行に行く前に終わらせるって約束、忘れてないよね?」
優愛がニッコリと微笑む。
その笑顔は美しいけれど、目の奥が笑っていない。
まさに文化祭の時の「鬼委員長」の顔だ。
「い、いや、今日は三が日だし、まだゆっくりしても……」
「だーめ。冬休み明けには実力テストもあるし、明日からは私もお稽古事で忙しいの。直前になって泣きついても知らないよ? 今、ここで、私が監視してる間に終わらせるの!」
優愛はシャーペンを僕に握らせ、問題集のページを開いた。
「はい、スタート! 一時間集中したら、お茶とお菓子出してあげるから」
「……アメとムチが上手すぎる」
「溢喜のためだもん。頑張れ、私のパートナー!」
逃げ場はない。
甘い香りのする乙女の部屋で、僕は数式という現実と戦う羽目になった。
隣では、優愛が自分の課題である経営学の本を読み始めている。
静かな部屋に、ページをめくる音と、僕の溜息だけが響く。




