第百八十四話 酔いどれ達の寝息と、雪化粧の庭園
「……ふう。やっと静かになったな」
「だね。あんなに元気だったのに、電池が切れたみたい」
宴の始まりから二時間後。
大広間には、豪快な寝息のハーモニーが響き渡っていた。
優誓おじいちゃんは座布団を枕に高いびき。真実おじいちゃんは飲みすぎて顔を赤くしたまま船を漕ぎ、他の二人も似たような状態だ。
日本の経済界を動かす大物たちが、無防備に転がっている光景はなかなかシュールだが、それだけ孫たちとの時間が楽しかったのだろう。
「今のうちに、少し涼みに行こうか」
「うん。暖房と熱気で、ちょっと暑くなっちゃったし」
僕たちは仲居さんに「お水をお願いします」と声をかけ、静かに大広間を抜け出した。
向かったのは、長い渡り廊下の先にある、光道家自慢の日本庭園が見える縁側だ。
サッシを開けると、凛とした冷気が流れ込んでくる。
目の前には、一面の銀世界が広がっていた。
丁寧に手入れされた松の木や灯籠に雪が積もり、まるで水墨画のような静謐な美しさを湛えている。
「わあ……綺麗……」
優愛が感嘆の声を漏らし、縁側へと進み出る。
白い雪景色の中に、深紅の振袖姿の彼女が立つと、そこだけ花が咲いたように鮮やかだ。
ハラハラと舞い落ちる雪が、彼女の髪や肩に音もなく降り注ぐ。
「……絵になるな」
僕が思わず呟くと、優愛が振り返ってふわりと微笑んだ。
「そう? お庭が綺麗だからだよ」
「いや、優愛がだよ。……今日の優愛は、本当に反則級に可愛い」
「……もう。お酒も飲んでないのに、どうしたの?」
「素面だから言ってるんだよ。酔ってたら言えない」
僕が真顔で返すと、優愛は耳まで赤くして、持っていたショールに顔を埋めた。
「……溢喜のバカ。心臓に悪い」
「お互い様だろ。さっきの車の中といい」
僕たちは並んで縁側に腰掛け、庭を眺めた。
背後からは微かに宴会の喧騒(寝息)が聞こえるけれど、ここだけは時が止まったように静かだ。
「ねえ、溢喜」
優愛が、雪を見つめたまま口を開く。
「さっきおじいちゃんたちが言ってたこと……『将来』の話」
「ああ、結婚式の費用とか言ってたやつか」
「……溢喜は、どう思った? 気が早いって笑ってたけど」
優愛の声が少し震えている。
彼女が何を気にしているのか、僕には痛いほど分かった。
光道家の跡取り問題、家の事情、そして僕たちの年齢。
「結婚」という言葉は、ただの夢物語として語るには、僕たちの背負うものは少しだけ重い。
けれど。
「……確かに気は早いけどさ。でも、嫌じゃなかったよ」
「え?」
「むしろ、おじいちゃんたちが僕らの未来を、そうやって当たり前に信じてくれてることが嬉しかった。……僕も、そうなればいいって思ってるし」
僕が優愛の方を見ると、彼女は驚いたように目を見開き、やがて瞳を潤ませて、とびきりの笑顔を見せた。
「……うん! 私も! 私も、そうなれたらいいなって、ずっと思ってる!」
優愛が身を乗り出し、僕の肩に頭を乗せてくる。
振袖の滑らかな感触と、彼女の体温。
雪の冷たさなんて忘れてしまうくらい、心が温かい。
「あ、そうだ。母さんに写真頼まれてたんだった」
「えっ、今撮るの? 顔赤くないかな?」
「大丈夫、可愛いから。ほら、こっち向いて」
僕はスマホを取り出し、インカメラを起動した。
雪化粧の庭園をバックに、スーツ姿の僕と、振袖姿の優愛。
画面の中で、二人の距離はこれ以上ないほどゼロに近い。
「はい、チーズ」
カシャッ。
保存された写真には、少しはにかんだ僕と、幸せそうにピースをする世界一可愛い振袖美少女が写っていた。
「……よし。家宝にしよう」
「大げさだなぁ。……あとで私にも送ってね?」
「もちろん」
僕たちはしばらくの間、そうして肩を寄せ合い、雪が降り積もる様子を眺めていた。
おじいちゃんたちが起き出せば、また賑やかな「新年会第二ラウンド」が始まるだろう。
でも今は、この静かで幸せな時間を、二人だけで独占していたかった。




