第百八十二話 静寂の車内、振袖の下の秘密
重厚なドアが閉まると、車内は外界の音から遮断され、静寂に包まれた。ふかふかの革張りシート。微かに香る高級な芳香剤の匂い。運転席と後部座席の間には仕切りこそないものの、この空間は完全に二人だけの個室のようなものだ。
「……ふぅ」
隣に座った優愛が、小さく息を吐いた。振袖の帯が苦しいのか、背筋をピンと伸ばしたまま、少し窮屈そうにしている。
「大丈夫か? 帯、きつくない?」
「ううん、平気。……ただ、ちょっと緊張しちゃって」
「緊張? 優愛が?」
「だって、お正月だよ? 優誓おじいちゃんたち四兄弟が勢揃いしてるんだよ? 想像しただけで胃が痛くなりそう」
優愛が苦笑いをする。
確かに、光道家を率いる四兄弟――総帥の優誓、僕の祖父である真実、そして爽快、栄誉。
かつては対立していた彼らだが、僕ら孫世代の活躍もあって和解し、今ではすっかり「仲の良い(そして声の大きい)老人会」と化している。
仲が良いのはいいことだが、あの四人が集まった時のパワーは凄まじい。新年早々、その熱気に当てられる覚悟は必要だ。
「まあ、何かあったら僕が盾になるよ」
「ふふ、頼もしいね。……でも、真実おじいちゃんと優誓おじいちゃんがタッグを組んで、溢喜をいじり倒す未来が見えるけど」
「……否定できない。孫への愛が重いんだよな、あの人たち」
僕たちが軽口を叩き合っていると、車は滑らかに走り出した。窓の外を流れる景色。普段見慣れた街並みが、少しずつ遠ざかっていく。
「ねえ、溢喜」
優愛が、体を動かさずに視線だけをこちらに向けてくる。
「ん?」
「手、繋ぎたいんだけど……」
優愛が困ったように、二人の間のスペースを見る。
僕たちは少し間を開けて座っているが、振袖のボリュームがあるため、距離感は近い。
ただ、運転手さんもいるし、堂々と手を繋ぐのは少し憚られる。
「……ここなら、大丈夫かな」
優愛が、僕に近い方の手――右手を、そっとシートの上に置いた。
すると、彼女の手首から垂れ下がった長い袖(袂)が、自然と手の上に覆いかぶさった。
鮮やかな深紅の布地が、ふわりと盛り上がる。
外から見れば、ただ袖がシートに落ちているようにしか見えない。
「……ここ」
優愛が目線で、その袖の膨らみを指す。
僕は意図を察し、自分の左手をそっとその袖の下へと滑り込ませた。
ひんやりとした絹の感触をくぐり抜けると、その下には、温かい優愛の掌が待っていた。
「……ん」
見えない場所で、指と指を絡め合う。
上には重厚な着物の生地。その下にある、秘密の温もり。
まるで二人で小さな布団に入っているような、妙な背徳感と安心感がある。
「……優愛さん、大胆ですね」
「……溢喜が緊張してるみたいだったから。リラックスさせてあげようと思って」
「それはどうも。おかげで心拍数が上がったよ」
「あはは、逆効果だった?」
優愛が悪戯っぽく笑い、隠れた指にきゅっと力を込める。
運転手さんの背中は遠く、バックミラー越しに目が合うこともない。この密室で、僕たちは公然と、けれど密やかに体温を分かち合っていた。
やがて、車窓の景色が変わった。
高い塀に囲まれた屋敷が立ち並ぶ、市内でも有数の高級住宅街。その中でも一際大きな門構えが見えてくる。
「……着いたね」
「ああ。いよいよだ」
車が減速し、砂利を踏む音と共に、巨大な門が開く。
光道家本邸。
僕たちの「戦場」であり、そして「ルーツ」でもある場所。
袖の下で繋いだ手を、名残惜しそうに離す。
残った温もりを握りしめ、僕たちは覚悟を決めて車を降りる準備をした。




