第百六十九話 ベランダ越しの夜風、届かない数メートル
窓を開けると、身を切るような冬の夜風が吹き込んできた。
僕は慌てて厚手の上着を羽織り、ベランダへと出る。
隣の家のベランダには、すでに人影があった。
闇に目が慣れると、モコモコのルームウェアの上からダウンジャケットを羽織り、マフラーをぐるぐる巻きにした優愛の姿が見えた。
「……よう」
「あ、溢喜。……寒っ」
白い息を吐きながら、優愛が小さく笑う。
一日ぶりに見るその顔。
ただそれだけのことなのに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような、懐かしいような、不思議な感覚に襲われた。
距離にして数メートル。
声は届くけれど、手は届かない。その距離が、今日はやけに遠く感じる。
「ごめんな。今日は、なんか連絡しなくて」
僕は手すりに寄りかかりながら、一番気になっていたことを口にした。
「ううん。私も、大掃除でスマホ見る暇もなかったし。……でも、溢喜の方から連絡ないの、珍しいなって思ってた」
優愛が手すりに頬杖をつき、少しだけ首を傾げる。
その瞳が、街灯の光を反射してキラキラと揺れている。
「いや、その……希望に言われたんだよ。『家族サービスの時間も作ってやれ』って。お義父さん、僕ばっかり優愛を独占してると、寂しがるんじゃないかって」
僕が正直に話すと、優愛はきょとんとした顔をして、それから「ふふっ」と吹き出した。
「なによそれ。希望くん、変なところに気が利くんだね」
「まあな。図星だったか?」
「……うん、まあね。お父さん、今日は一日中ニコニコしてて、張り切ってお風呂掃除とかしてたよ。『優愛、手伝ってくれるか!』って」
「そっか。じゃあ、正解だったな」
よかった。
僕の我慢は、無駄じゃなかった。優愛が家族といい時間を過ごせたなら、それが一番だ。
そう思って納得しようとした時、優愛がぽつりと呟いた。
「でもね……ちょっとだけ、寂しかった」
「え?」
「お父さんたちといるのも楽しかったけど……ふとした時に、スマホ見ちゃったりして。『溢喜、何してるかな』って」
優愛が、手すりから身を乗り出すようにして、僕の方へ手を伸ばす。
けれど、その指先は虚空を掴むだけだ。
僕らの間には、冷たい夜風と、飛び越えられない隙間がある。
「……僕もだよ。一日中、優愛のことばっかり考えてた。何してても、上の空で」
僕も同じように手を伸ばしてみる。
指先と指先が、暗がりの中で向き合う。
触れることはできない。
その事実が、昨日まで当たり前のように隣にいた温もりを、より一層恋しくさせる。
「ねえ、溢喜。明日は大晦日だね」
「ああ。……年越しそば、どうする?」
「お昼に、私が打ちに行くよ! おじいちゃん(優誓)直伝の、手打ちそば!」
「マジで? 楽しみにしてる」
「期待してて! ……ねえ」
優愛が、伸ばしていた手を引っ込め、自分の胸の前でぎゅっと握りしめた。
「充電、完了した?」
「……いや。まだ、半分くらいかな」
僕が正直に答えると、優愛はふわりと笑った。
「そっか。じゃあ、残りは明日、直接会ってチャージしてあげる」
その言葉だけで、体温が一度上がった気がした。
触れられなくても、声と笑顔だけで、こんなにも満たされる。
「じゃあね、溢喜。おやすみ」
「おやすみ、優愛」
彼女が部屋に戻り、窓が閉まるのを見届けてから、僕も自分の部屋へと戻った。
温かい部屋の中。
自分の右手を見つめる。
そこには何も残っていないけれど、明日の約束という確かな温もりが、僕の胸に残っていた。
空白の一日は終わった。
明日は大晦日。
一年の締めくくりを、最高の笑顔で迎えられそうだ。




