第百六十五話 暮れなずむ部屋と、事後承諾のサプライズ
「……あ、暗くなってきた」
優愛の呟きで、僕はふと我に返った。
気がつけば、窓の外は群青色に沈みかけていた。
カーテンを閉めていない窓から、街灯の明かりがポツリポツリと灯り始めるのが見える。
リビングの照明をつけていないせいで、部屋の中はテレビの画面の光だけが青白く揺らめいていた。
「もうそんな時間か……。マッサージしてたら、あっという間だったな」
「うん。……動きたくないなぁ」
優愛はコタツに顎を乗せたまま、少し甘えた声を出した。
その顔がテレビの光に照らされて、昼間とは違う、少し大人びた陰影を帯びている。
シーンとした部屋に、エアコンの駆動音と、二人の呼吸音だけが重なる。
このまま夜ご飯まで、こうしてまどろんでいたい。
そんな怠惰な空気が最高潮に達した、その時だった。
優愛が突然、バッと顔を上げた。
「……忘れてた」
「え? 何を?」
「旅のしおり!」
その単語を聞いた瞬間、僕はきょとんとしてしまった。
「……しおり? 旅行の行程表なら、LINEのノートに貼って共有しただろ?」
「違うよ! 紙のやつ! 冊子にするって約束してたの!」
「は? 誰と?」
「流満ちゃんと! 『遠足みたいに、可愛いしおりが欲しいなー』って言われたから、『任せて! お姉ちゃんたちが可愛いの作ってあげる!』って……」
優愛が頭を抱えて叫ぶ。
なるほど。この「面倒見のいい幼馴染」は、可愛いはとこのおねだりに弱く、そして僕に相談する前に安請け合いをしてしまう癖がある。
「……つまり、優愛画伯がイラスト入りのしおりを作ると?」
「うぅ……違うの。溢喜も一緒に作るの! 『二人で作るね』って言っちゃったの!」
「事後承諾かよ!」
僕は思わずツッコミを入れたが、優愛のこの様子じゃ、断れるわけがない。
あのはしゃいでいた流満ちゃんの顔を思い浮かべると、確かにLINEの文字だけじゃ味気ないかもしれない。
「……で、進捗は?」
「白紙! 完全に白紙だよぉ! デザイン考えるの忘れてた!」
「まじか……」
お正月明けにはすぐに旅行だ。親戚に配るなら、今のうちに作ってデータで送るか、郵送しないと間に合わない。
「……やるか、今から」
「手伝ってくれるの、溢喜!?」
「当たり前だろ。幹事は二人なんだから。それに、僕のマッサージで回復したんだから、そのエネルギーをペン先に込めるんだ」
「ううっ、ありがとう……! 溢喜は神様だよぉ」
僕たちは慌てて照明をつけ、コタツの上にノートとカラーペン、そしてコピー用紙を広げた。
さっきまでの甘い雰囲気はどこへやら、リビングは一瞬にして「編集部」へと変貌した。
「えっと、まずは表紙のデザインから……」
優愛がペンを執り、背筋を伸ばして描き始める。
その横顔は真剣そのものだ。
「よし。やっぱりスキーといえば、雪だるまでしょ」
優愛がサラサラとペンを走らせる。
しかし、出来上がったのは「可愛い雪だるま」というよりは、「二段重ねの鏡餅に手足が生えた」ような、なんとも言えない生物だった。
「……優愛画伯、これは?」
「え? 雪だるまだよ? 躍動感がポイント」
「……うん、まあ、味があっていいと思う。流満ちゃんなら『なにこれー!』って爆笑して喜ぶよ」
「それ、褒めてないからね!?」
二人で笑い合いながら、ページを埋めていく。
「一日目の集合場所はここで、バスの時間は……」
「幸葵ちゃんたちは、自由時間のあとに合流だよね」
「そうそう。二日目の夕食はカレー作りだから、役割分担も書いとかなきゃ」
僕が文字を書き、優愛がイラストや装飾を加える。
単純作業のはずなのに、隣で優愛があーだこーだと言いながら書いているだけで、退屈しないイベントに変わる。
かつてはいがみ合っていた光道家と青空家。
けれど今は、僕ら孫世代がこうしてコタツで頭を突き合わせ、一族みんなの旅行計画を立てている。
その事実が、なんだか誇らしかった。
「……ふぅ。これで原稿完成!」
最後の一枚を書き終えた頃には、時計の針は十九時を回っていた。
「お疲れ、優愛。頑張ったな」
「溢喜もお疲れ様。手伝ってくれて本当に助かったよ」
優愛がペンのキャップを閉め、大きく伸びをする。
テーブルの上には、手作り感満載の、でも愛情が詰まったしおりの原稿。
それは、僕たちが「二人」で築いてきた関係の証でもあった。
「さてと……お腹、空いたな」
「だね。お昼にお蕎麦食べたのに、頭使ったらペコペコだよ」
ちょうどその時、階下のキッチンから、いい匂いと共に母さんの声が響いてきた。
「溢喜ー! 優愛ちゃーん! ご飯できたわよー! 今日はハンバーグよー!」
「はーい!」
優愛が元気よく返事をして立ち上がる。
どうやら、大掃除を終えた両親が、僕らのために夕飯を作ってくれていたらしい。
僕たちは顔を見合わせて笑うと、温かい湯気が待つダイニングへと急いだ。




