第百六十四話 魔物の棲処と、即席マッサージ店
テレビの中では、レポーターがゲレンデの美味しいカレーを紹介していた。
「美味しそう……。スキー場って、なんであんなにカレーが魅力的に見えるんだろうね」
「わかる。海で食べるラーメンと、山で食べるカレーは、通常の三倍美味いっていう法則があるからな」
僕たちはみかんの皮を積み上げながら、画面に向かってぼんやりと相槌を打っていた。
コタツの魔力は凄まじい。
一度入ってしまえば、腰から下が完全に同化してしまったかのように動かなくなる。
部屋の中は暖かく、優愛の体温も隣にある。
このまま一日が終わってもいいんじゃないかという、危険な誘惑に駆られる。
「……んーっ!」
不意に、優愛が大きく背伸びをした。
肩の骨がポキポキと小さな音を立てる。
「あー、肩凝ったかも。今日は人混みの中を歩き回ったからかなぁ」
優愛が自分の肩をトントンと叩く。
確かに今日の商店街は戦場のような混雑だった。
それに、彼女は最近、光道家の跡継ぎとしての勉強や、冬休みの課題で机に向かう時間が長かったはずだ。
「……揉んでやろうか?」
僕が何気なく提案すると、優愛はパッと顔を輝かせた。
「え、いいの!? やった! お願いします、店長!」
「店長じゃないけどな。……ほら、背中向けて」
優愛がコタツの中でくるりと向きを変え、僕に背中を向ける。
モコモコのルームウェア越しだが、その背中は華奢で小さい。
僕は彼女の両肩に手を置き、親指で凝っている部分を探った。
「失礼しまーす」
「はーい。……あ、そこ! そこそこ!」
僕が親指に力を込めると、優愛から間の抜けた声が漏れた。
「凝ってるなぁ。優愛、ガチガチだぞ。やっぱり勉強のしすぎじゃないか?」
「うう……否定できない……。お祖父様からの課題図書も読まなきゃだし……んっ、あ、そこ効くぅ……」
優愛が気持ちよさそうに目を細め、脱力して僕の方に体重を預けてくる。
僕の手のひらに伝わる彼女の体温と、柔らかな感触。
マッサージをしているはずなのに、なんだかこちらまでドキドキしてくるのは何故だろう。
「力加減、どう?」
「最高……。溢喜、意外と上手だね。ゴッドハンドかも」
「褒めても何も出ないぞ。……次は首筋な」
「ん……お願い……」
優愛の首筋に触れる。
細くて白い首。後れ毛がくすぐったい。
普段は「委員長」として僕を引っ張ってくれる彼女が、こうして無防備に身を委ねてくれていることが、たまらなく愛おしい。
「……ふぅ。ありがとう、溢喜。生き返ったぁ」
十分ほど揉みほぐすと、優愛は満足そうに振り返った。
その顔は少し紅潮していて、目はトロンとしている。
「どういたしまして。少しは楽になった?」
「うん、羽根が生えたみたい! ……じゃあ次は、私の番ね!」
「え?」
「溢喜だって疲れてるでしょ? 十キロのみかん箱、一人で運んでくれたんだから。ほら、腕出して!」
優愛は僕の返事を待たずに、僕の右腕を引っ張り寄せた。
そして、彼女の小さな両手で、僕の前腕をムニムニと揉み始めた。
「ここの筋肉が張ってるんだよねー。よしよし、ほぐれろー」
「あ、痛たた……いや、そこ気持ちいいかも」
優愛の指は細いけれど、意外と力が強い。
ツボを的確に押さえられるたびに、みかん運びで酷使した腕の疲労が溶け出していくようだ。
「ふふ、溢喜の腕、硬いね。やっぱり男の子って感じ」
「……優愛の手は、小さくて柔らかいな」
「なっ……! 急に何言うの!」
優愛が顔を赤くして、僕の腕をペチッと叩く。
けれど、マッサージをやめる気配はない。
むしろ、揉むというよりは、優しく撫でるような手つきに変わっていく。
「……溢喜の手、おっきいね」
いつの間にか、マッサージは終わり、ただの手繋ぎタイムへと移行していた。
コタツの上で、僕の大きな手を優愛の両手が包み込んでいる。
「この手で、重い荷物持ってくれたんだもんね。……ありがとね、溢喜」
「……どういたしまして」
優愛が僕の手の甲に、そっと自分の頬を乗せる。
その仕草が子猫みたいで、僕は空いている方の手で彼女の頭を撫でた。
テレビからは、次の番組のバラエティ音声が流れている。
けれど、僕たちの周りだけは、スローモーションのように穏やかな時間が流れていた。
十二月二十九日の午後は、こうして甘く、温かく過ぎていく。




