第百六十三話 コタツの引力と、ミカンの芸術
重たいみかん箱を、暖房の効いていない廊下の隅に置く。
ここなら涼しいから、正月明けまで鮮度を保てるはずだ。
僕は箱の蓋を開け、鮮やかなオレンジ色のみかんを五、六個ほどカゴに移し替えると、リビングへと戻った。
「ふぅ……」
コートを脱ぎ、定位置であるコタツに足を滑り込ませる。
冷えた体が、じんわりと温められていく感覚。
一度入ったら二度と出られない、魔の領域だ。
両親はまだ忙しそうに二階で片付けをしているらしく、リビングは静かだった。
「さて、味見の続きといきますか」
カゴからみかんを一つ手に取る。
皮を剥こうとした、その時だった。
ガチャリ。
玄関のドアが開く音。
そして、遠慮のない足音が廊下を近づいてくる。
「お邪魔しまーす!」
リビングのドアが勢いよく開き、現れたのは優愛だった。
さっき別れてから、まだ十分も経っていない。
しかも、制服代わりのコート姿から、可愛らしいモコモコのルームウェアに着替えている。
手には、急須と湯呑みが載ったお盆を持っていた。
「……優愛さん? さっき『また後で』って言ったばかりでは?」
「うん。だから『後で』来たよ」
優愛は悪びれもせず、当然のように僕の隣に座り、コタツに潜り込んでくる。
「家に帰ったら、お母さんたちお昼寝してて暇だったの。だから、みかんパーティーしよっかなって」
「お茶まで持参で?」
「溢喜の家の茶葉、切らしてるかもって思ったから。私の気遣い、完璧でしょ?」
「……はいはい。ありがとうございます」
優愛は手際よくお茶を注ぐと、カゴの中から一番形の良いみかんを選び出した。
「よし。じゃあ、溢喜。勝負ね」
「は? 何の?」
「『いかに綺麗にみかんの皮を剥けるか』選手権!」
優愛はいきなり謎の競技を開始した。
コタツの上で繰り広げられる、小さな戦い。
僕は苦笑いしながらも、手の中のみかんに親指を立てた。
「望むところだ。芸術点の高さを見せてやる」
部屋には、テレビのワイドショーの音と、皮を剥く微かな音だけが響く。
この、何もしない贅沢な時間。
外は寒風が吹き荒れているけれど、ここは別世界のように穏やかだ。
「できた! 見て見て、溢喜!」
数分後、優愛が得意げに自分の作品を披露した。
それは、皮が花びらのように均等に展開された、見事な「花剥き」だった。
白い筋も丁寧に取り除かれている。
「……綺麗だな。悔しいけど、完敗だ」
僕の手元にあるのは、無残に千切れた皮の残骸と、ちょっと果汁が漏れてしまったみかんだ。
不器用さが露呈している。
「ふふん、まだまだだね。……はい、あげる」
優愛は自分が綺麗に剥いた方のみかんを、僕の掌に乗せてくれた。
「え、いいの? 選手権の商品?」
「ううん。溢喜には、綺麗なのを食べてほしいから。……その代わり、溢喜のぐちゃぐちゃなやつ、私にちょうだい?」
「いや、それはさすがに悪いだろ」
「いいの! 味は一緒だもん。交換こ!」
優愛は僕の手から不格好なみかんを奪い取ると、嬉しそうに一房を口に放り込んだ。
「ん~、甘い! コタツで食べると、三割増しで美味しいね」
「……そうだな」
僕も優愛が剥いてくれた綺麗なみかんを食べる。
確かに甘い。
けれど、それ以上に胸に込み上げてくるものがある。
別々の家に帰ったはずなのに、こうして当たり前のように同じコタツに入り、同じみかんを食べている。
その距離感の近さが、年末の緩んだ空気の中で、より一層心地よく感じられた。
「あ、テレビでスキー場の特集やってる!」
優愛が画面を指差す。
映し出されているのは、一面の銀世界と、楽しそうに滑る人々の姿。
「私たちも、もうすぐあそこに行くんだね」
「ああ。……滑れるかな」
「大丈夫だよ。私がついてるもん。コタツで温まったら、イメトレしよっか?」
「イメトレ?」
「うん。この座布団をスキー板に見立てて……」
優愛は楽しそうに、コタツの中で足をバタつかせている。
午後の一時はまだ始まったばかり。
みかんの山がなくなるまで、僕たちの「ダラダラとした幸せ」は続きそうだ。




