第百五十四話 年の瀬の朝、鏡の前のファッションショー
翌朝、十二月二十九日。
スマートフォンのアラームが鳴るよりも先に、ふと目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は、冬特有の鋭さと透明度を含んでいる。布団から恐る恐る片腕を出してみると、指先がピリッとするような冷気に包まれた。
「……寒い」
思わず独りごちて、再び布団の中に潜り込む。
あと五分、いや十分。この温かい聖域に留まっていたいという誘惑が、頭の中で甘く囁く。
しかし、今日が二十九日であると思い出し、僕はなんとかその誘惑を振り払った。
今年も残すところあと三日。
世間はいよいよ「師走」のラストスパートだ。昨日、カニ鍋で英気を養ったとはいえ、年末の空気感というのは、どこか人を急き立てるような不思議な力がある。
僕は気合を入れてベッドから這い出し、暖房のスイッチを入れた。
着替えを済ませてリビングへ降りると、すでに両親はそれぞれの仕事(父は大掃除の続き、母はおせちの下準備)に取り掛かっていた。
「おはよう、溢喜。トースト焼けてるわよ」
「ん、ありがと」
焼きたてのトーストにバターを塗り、マグカップに口をつける。
中身は、たっぷりの牛乳と砂糖を入れた、特製の甘いカフェオレだ。
昔から苦いものは苦手だ。優愛はブラックコーヒーを好んで飲むけれど、僕にはまだその美味しさがわからない。
甘い温かさが喉を通り過ぎると、ようやく体が内側から目覚めていく気がした。
そんな平和な時間を噛み締めていると、ポケットの中のスマホが短く震えた。
『溢喜、おはよ。起きてる?』
画面に表示された「優愛」の文字を見た瞬間、僕の表情筋は無意識に緩んだらしい。
向かいに座っていた母さんが「あらあら」とニヤついているのが視界の端に見えたが、あえて無視をする。
『おはよう。今、朝飯食べてるとこ』
『そっか。ねえ、今日なんだけどさ。駅前の商店街に行かない? お母さんに、お正月飾りの買い出し頼まれちゃって』
『いいよ。僕も暇してたし』
『やった! じゃあ、十時にいつもの公園で待ち合わせね! 暖かくしてきてね』
『了解』
メッセージのやり取りを終え、僕は時計を見上げた。
現在時刻は九時ジャスト。待ち合わせまであと一時間ある。
普段なら「まだ一時間もある」と思うところだが、今の僕にとっては「あと一時間しかない」だった。
僕は急いでトーストを平らげると、洗面所へと駆け込んだ。
鏡に映った自分の姿は、見事なまでの寝癖頭。
優愛は「寝癖も可愛い」なんて言ってくれることがあるけれど、それに甘えてだらしない格好で行くわけにはいかない。
だって、今日は久しぶりの「外でのデート」なのだから。
「……よし、気合入れるか」
僕はドライヤーとワックスを手に取り、頑固な寝癖との戦いを開始した。
前髪を少し流して、サイドを抑える。
やりすぎるとナルシストみたいになるし、何もしないと寝起き丸出しだ。
その絶妙なラインを探りながら、鏡の中の自分と睨み合うこと二十分。
「……まあ、こんなもんか」
なんとか人前に出られる髪型にセットし終え、次は服装選びだ。
クローゼットを開け、コートやマフラーを吟味する。
ずっと家にいたからジャージばかり着ていたけれど、今日は商店街に行く。
知り合いに会うかもしれないし、何より隣を歩くのは、学校でも評判の美少女・優愛だ。
彼女に釣り合う男でいるためには、手抜きは許されない。
「寒そうだから厚手のニットにして……コートはネイビーのでいいか」
あーでもない、こーでもないと一人ファッションショーを繰り広げ、ようやく納得のいくコーディネートが決まった頃には、出発十分前になっていた。
「行ってきます!」
「はい、行ってらっしゃい。優愛ちゃんと楽しんでね」
母さんの冷やかしを背に受けながら、僕は玄関を飛び出した。
外の空気はキリッと冷たいけれど、体の中は期待と少しの緊張で熱いくらいだ。
さあ、一日の始まりだ。
たかが買い出し、されど買い出し。
優愛との「年末デート」に向かって、僕は弾むような足取りで歩き出した。




