第百五十三話 沈黙の食卓と、剥かれたカニの行方
「よし、そろそろ食べ頃だぞ!」
父さんの号令と共に、リビングの中央に鎮座した土鍋の蓋が開けられた。
もわっと立ち上る白い湯気。その向こうには、鮮やかな赤色のカニと、たっぷりの野菜がぐつぐつと煮えている光景が広がっていた。
醤油とカニの出汁が混ざり合った、暴力的なまでに食欲をそそる香りが部屋中に充満する。
「いただきまーす!」
四人の声が重なり、我が家の忘年会兼カニ鍋パーティーが始まった。
最初は「美味い!」「熱っ!」という賑やかな声が飛び交っていたのだが、開始から十分もすると、リビングは奇妙な静寂に包まれた。
カニを食べると人は無口になる。
これは古来より伝わる真理であり、我が家も例外ではなかった。
父さんも母さんも、そして僕も、カニの殻を剥くという精密作業に全神経を集中させているため、会話どころではないのだ。
カチッ、パキッ、という殻を割る音と、ズルッという身をすする音だけが響くシュールな空間。
「……ん」
その静寂を破ったのは、優愛だった。
彼女は手際よくカニの脚の殻を綺麗に剥くと、プリプリの身が露出したそれを、自分の口ではなく、隣に座る僕の器に入れたのだ。
「はい、溢喜。ここ、一番身が詰まってて美味しいところだよ」
「え? いや、優愛が食べなよ。せっかく綺麗に剥いたのに」
「いいの。私は剥くのが楽しいんだから。ほら、冷めないうちに」
優愛はニコニコしながら、さらに次の脚へと手を伸ばしている。
自分の食欲よりも、僕に美味しいところを食べさせたいという、その献身ぶり。
僕はありがたく、その白く輝くカニの身を口に運んだ。
噛んだ瞬間に広がる濃厚な甘みと、繊維の弾力。そして何より、優愛の優しさというスパイス。
「……美味すぎる」
「ふふ、でしょ?」
僕たちがそんなやり取りをしていると、向かいの席からわざとらしい咳払いが聞こえた。
「ゴホン! ……おい母さん。俺の器、空っぽなんだが?」
父さんが、殻を剥くのに苦戦しながら、チラチラと母さんを見ている。
どうやら僕たちが羨ましくなったらしい。
しかし、母さんは冷ややかな視線を一瞥くれただけで、自分のカニ酢に身を浸していた。
「甘えないの。自分のカニは自分で剥く。それが大人のルールよ」
「……はい」
父さんがしょんぼりと肩を落とす。その姿を見て、優愛がクスクスと笑い、剥いたばかりの爪の部分を父さんの器にそっと置いた。
「おじさん、これどうぞ。剥けました」
「おおっ! 優愛ちゃん! なんていい子なんだ! 溢喜にはもったいない!」
「ちょっと父さん、どさくさに紛れて何言ってんの」
「あら優愛ちゃん、そんなに甘やかさなくていいのよ。この人、図に乗るから」
再び食卓に笑い声が戻る。
美味しい料理と、気兼ねない家族との会話。
クルーズ船の豪華なディナーも最高だったけれど、コタツに入って鍋を囲むこの時間は、また別の種類の幸福感で満たされている。
「ごちそうさまでした。……ふぅ、食べたぁ」
一時間後。
鍋の中身は綺麗に空になり、僕たちは満腹感と共に座布団の上に転がっていた。
時計を見れば、もういい時間だ。
「そろそろ帰るね。おじさん、おばさん、ごちそうさまでした」
「こちらこそ、手伝ってくれてありがとうね。これ、お土産のカニ。お父さんたちと食べてね」
母さんが持たせてくれたタッパーを手に、優愛が玄関に向かう。
僕は上着を羽織り、彼女を送るために外へと出た。
「送るって言っても、隣だけどな」
「ふふ、その数メートルが嬉しいんじゃん」
夜風は冷たかったけれど、カニ鍋で温まった体には心地よかった。
隣の家の門の前。
優愛は振り返り、街灯の下でふわりと笑った。
「今日は楽しかった。ありがとね、溢喜」
「こっちこそ。宿題も進んだし、助かったよ」
「また明日ね。……おやすみ、私のパートナー」
そう言って、彼女は背伸びをし、僕の頬にちゅっと音を立ててキスをした。
そして、赤くなった顔を見られるのが恥ずかしいのか、逃げるように家の中へと入っていった。
残された僕は、冷たい風の中で頬を押さえ、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
カニの味も吹き飛ぶような、甘いデザート。
これだから、冬の寒さも悪くないなんて思ってしまうんだ。




