第百五十一話 夕暮れの目覚めと、カニの襲来
ふと、鼻先をくすぐる甘い香りで意識が浮上した。
目を開けると、視界いっぱいにオレンジ色の光が満ちている。そして、その光の中に、柔らかく微笑む優愛の顔があった。
「……ん、あ……」
「あ、起きた? おはよう、溢喜」
優愛の声が、鼓膜に優しく響く。
僕は彼女の太ももの感触を後頭部に感じながら、ぼんやりとした頭で状況を整理した。
そうだ。ゲーム対決に負けて、罰ゲームの膝枕で寝てしまっていたんだった。
「……僕、どれくらい寝てた?」
「一時間くらいかな。寝顔、可愛かったよ」
「うわ、最悪だ……」
罰ゲームとはいえ、好きな女の子の膝の上で一時間も熟睡してしまったなんて。
慌てて体を起こそうとすると、優愛が「いいよ、そのままで」と僕の額に手を置いた。
「もう少しこのままでいようよ。外、夕焼けが綺麗だから」
優愛の視線を追って窓を見ると、冬の澄んだ空が鮮やかな茜色に染まっていた。
部屋の中は暖房が効いていて暖かいけれど、窓ガラスの向こうには張り詰めた冷気が漂っているのがわかる。
その対比が、今の僕たちの状況――寒い冬の中にある、小さな温もり――と重なって見えた。
静寂。
言葉は交わさないけれど、優愛の手が僕の髪を梳くリズムだけで、十分すぎるほどの愛情が伝わってくる。
この時間が永遠に続けばいいのに。
本気でそう思った矢先だった。
ピンポーン!
無粋なチャイムの音が、静かな時間を引き裂いた。
続けて、玄関のドアが開く音と、賑やかな声が響き渡る。
「ただいまー! いやー、重かったわ!」
「溢喜! 帰ってるかー! 救援頼む! カニが重い!」
両親の帰還だ。
僕と優愛は顔を見合わせ、苦笑いを浮かべた。
「……魔法が解ける時間みたいだね」
「だね。行こうか、溢喜」
優愛が名残惜しそうに、最後に一度だけ僕の頬を撫でてから立ち上がる。
僕たちは「日常」へと戻るために部屋を出て、階段を降りた。
玄関には、両手に発泡スチロールの箱を抱えた父さんと、大きな買い物袋をいくつも提げた母さんの姿があった。
「おかえりなさい、おじさん、おばさん!」
「あら、優愛ちゃん! 来てくれてたのね、助かるわぁ」
「お邪魔してました。荷物、半分持ちます!」
優愛はすぐに駆け寄り、母さんの荷物を受け取る。
その自然な振る舞いは、もはや「息子の彼女」というよりは「できた嫁」そのものだ。
「お、溢喜も起きたか。ほら、この一番でかい箱、冷凍庫に入れてくれ」
「はいはい。……うわ、重っ! これ全部カニ?」
「ああ、奮発したぞ! 今年の年末はカニ鍋だ!」
父さんが豪快に笑う。
冷え切った外から帰ってきた両親の頬は赤く、コートからは冬の匂いがした。
でも、その表情は明るく、家の中は一気に活気づいた。
「優愛ちゃんも、夕飯食べていくでしょ? カニのお裾分けもあるから、お家にも持って帰ってね」
「え、いいんですか? やったぁ!」
母さんの言葉に、優愛がパァッと顔を輝かせる。
その笑顔を見て、僕も自然と口元が緩んだ。
騒がしくて、温かくて、少しだけくすぐったい年末の夜。
冬の寒さが厳しくなるほど、家の中の温もりは増していく気がした。




