第十五話 胸のざわめき
「おかえり」
玄関で母の声が響いた。少し呆れたような響きに、僕は靴を脱ぎながら苦笑する。
「とんだ災難だったね。まさかおじさんの別荘に泊まるなんて…」
母がため息まじりに言う。
その言葉に、僕は「うん」とだけ返した。
――いや、なら泊まるの断ればよかったじゃん。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、心の中でだけツッコミを入れる。母に言ったところで仕方がない。結局のところ、僕だってまだ今日一日の出来事をうまく整理できていないのだから。
手のひらにまだ潮の冷たさが残り、心臓はまだ早鐘のように鳴っている。あの岩場で優愛を支えた瞬間の熱と緊張が、身体の奥底にしっかり刻まれている。頭では整理できないけれど、胸の奥はまだざわついていて、優愛の笑顔や香りがふとよみがえる。
朝起きて、朝ごはんを食べ、海へ出かけた。釣りをして、笑い声が波に混じって消えていくところまでははっきり思い出せる。けれど、それ以降の記憶がどうしても抜け落ちている。思い出そうとすると胸がざわつき、頭の奥で何かが拒む。いや、正直なところ、思い出したくないのかもしれない。
あの瞬間。
僕は確かにそこにいて、波が岩にぶつかる音と水しぶきの感触、優愛の手の温もりが今も残っている。誰かの気配が消えたあと、ただ「疲れた」と漏らしたことだけが、今も鮮明に残っている。
部屋に戻ると、その言葉が耳の奥で繰り返し響いた。自分の声が壁に反射し、鈍く跳ね返ってくる。それはまるで「お前はひとりだ」と突きつけてくるようだった。
けれど、確かに「誰か」が隣にいたはずだ。海辺で笑った横顔。夜の道を並んで歩いた影。名前を呼ぼうとすると喉が塞がり、代わりに咳が出る。記憶と夢が溶け合い、境界がどんどん曖昧になっていく。
ベッドに沈み、手を見つめる。そこにあったはずのぬくもりが思い出せない。触れた感触も、その時感じた温もりも、跡形もなく消えていた。僕が忘れてしまったのか、それとも最初から存在しなかったのか。
「本当にあったことなのかな…」
声に少し震えが混じる。まだ胸がざわつき、手のひらには余韻が残っている。笑っているようで泣いているようで、自分でも判別できなかった。
窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でる。月の光が床に差し込み、影を青白く伸ばした。ふと、自分の影の隣にもう一つ重なった気がして心臓が跳ねる。だが目を凝らせば、それはただの家具の影にすぎなかった。
「一緒にいたのは…誰だったんだろう」
胸の奥で問いが繰り返される。母の言葉も、僕の心の声も、すべてが断片で繋がらない。
ベッドに戻り、天井の染みを星座のように眺める。目を閉じると、岩場で感じた波の衝撃や、優愛の手の温もりが蘇り、胸がまだ熱くなる。思い出の残骸を掴もうと手を伸ばすが、指の間から霧のように零れ落ちていく。
「疲れたな…」
また声が漏れる。今度は涙が混じっていた。頬を伝う温かさを拭いながら、遠くで母の声が呼ぶのを聞いた気がする。優しく、それでいて遠ざかっていく声。僕は一度だけ、そちらに手を伸ばした。
部屋の静けさが、まるで世界が止まったように感じられた。
次の瞬間、意識は深い闇に沈んでいった。




