第百四十六話 南国の余韻と、置き手紙
「……起きれん」
日曜日の朝。
カーテンの隙間から差し込む光は、無情にも朝の到来を告げているが、僕の体は布団という名の重力圏から脱出できずにいた。
壁掛け時計の針は、もう九時を回ろうとしている。
クルーズ船では、毎朝優愛からのモーニングコール(という名の襲撃)があったり、美味しいビュッフェのために早起きしたりしていたけれど、ここは日本の、僕の自室だ。
「……静かだな」
今日は日曜日だから、両親がいるはずだ。
だけど、階下からはテレビの音も、母さんが掃除機をかける音も聞こえてこない。
不思議に思って、のろのろとベッドから這い出し、寒さに震えながらリビングへと降りてみた。
案の定、リビングには誰もいない。
その代わり、ダイニングテーブルの上に一枚のメモ用紙が置かれていた。
『おはよう、溢喜。
お父さんと一緒に、年末の買い出しに行ってきます(市場は混むから早めに出発!)。
お正月用のカニと数の子をゲットするまでは帰れません。
お昼は適当に食べてね。夕方には戻るわ。 母より』
「……なるほど」
メモを見て納得した。
我が家の年末行事、恐怖の「市場への買い出しツアー」だ。
毎年この時期の母さんの気合は凄まじい。父さんが荷物持ちとして連行されるのは、もはや恒例行事と言っていいだろう。
つまり、今日の僕は、夕方まで「自由」ということだ。
「よし、二度寝しよう」
そう決意して、踵を返そうとした瞬間、手の中のスマホが震えた。
『おはよー。まだ寝てる?』
画面を点灯させると、タイミングよく優愛からのメッセージが入っていた。
まるで監視カメラでもついているかのようなタイミングだ。
『おはよう。今、起きたところ』
『おじさんたちは? もう出かけた?』
『うん。カニを求めて戦場(市場)へ旅立ったよ』
『了解! じゃあ、今から行くね』
返信をして、ほんの数分後だった。
静まり返った家に、軽快な電子音が響き渡った。
ピンポーン。
「うわ、もう来たのか」
僕は慌てて寝癖だけ手櫛で整えると、玄関へと走った。
鍵を開けてドアを引くと、そこには白い息を吐きながら、少し体を縮こませている優愛の姿があった。
「おはよ、溢喜! ……さっむーい!」
「おはよう。早く入れよ、風邪引くぞ」
入ってきたのは、薄いピンクのトレーナーにデニムという、動きやすさ重視のラフな格好をした優愛だった。
髪は無造作にお団子にまとめられ、手には湯気を立てる鍋とお玉を持っている。
「……優愛さん、その装備は?」
「特効薬だよ。昨日の夜、お母さんが作りすぎちゃった豚汁。溢喜の好きなやつ」
ふわりと、味噌と出汁の香りが部屋に漂う。
その瞬間、僕の胃袋が「ぐうぅ」と情けない音を立てて反応した。
二度寝の誘惑は、一瞬にして食欲に敗北した。
「顔洗っておいで。下でご飯の準備するから」
「……はい。直ちに行動します」
優愛の笑顔と味噌の香りに釣られ、僕は洗面所へと向かった。
冷たい水で顔を洗いながら、鏡の中の自分に向かって呟く。
「自由」な休日は消えたけど、もっといい休日が始まったな、と。




