第百三十八話 甘い罠と、僕の理性
僕の意識を、ゆっくりと現実へと引き戻したのは、窓の隙間から差し込む、柔らかな光と……背中から伝わる、確かな温もりだった。
ゆっくりと目を開ける。
目の前に広がるのは、見慣れない、船室の白いシーツ。
そうだ、僕らは今、旅行に来ているんだ。
そこまで思い出して、僕は、自分の状況が全く普通ではないことに、思い至った。
昨夜、優愛の膝の上で、心地よい耳かきに身を委ねているうちに、僕は、いつの間にか眠ってしまっていた。
そして、今。
僕は、ベッドの上で、優愛の腕の中に、すっぽりと、後ろから抱きしめられるような形で、眠っていた。
(……え)
背中から伝わる、彼女の柔らかな感触と、温もり。
首筋にかかる、穏やかで、甘い寝息。
僕の体は、彼女の腕に、完全に、ロックされている。
(……どういう、状況だ、これ……?)
どうやら、僕が眠ってしまった後、彼女も、そのまま、僕を抱きしめるようにして、眠ってしまったらしい。
心臓が、朝の静寂の中で、ドクン、ドクン、と、大きく、そして危険な音を立てて、鳴り響いていた。
(……やばい。これは、やばい)
起こしてはいけない。
でも、このままだと、僕の理性が、持たない。
僕のすぐ後ろにある、彼女の、全て。
それが、僕の、男としての本能を、容赦なく、刺激してくる。
(……そうだ)
ふと、僕の頭に、甘い考えがよぎった。
四日目の朝、寝たフリをしていた僕に、彼女は、唇を指でなぞる、という、とんでもないことをしてきた。
そして、今、彼女は、僕が起きていることに、気づいていない。
(……僕が、同じことをしても、バレないんじゃないか?)
それは、最低で、最高に、甘い誘惑だった。
僕は、意を決して、ゆっくりと、ほんの少しだけ、体を、反転させようとした。
彼女を起こさないように。静かに、慎重に。
僕の、ほんのわずかな動き。
それに、反応したかのように。
僕の背中に回されていた彼女の腕が、きゅっと、さらに強く、僕の体を、抱きしめてきた。
「……ん」
そして、僕の耳元で、聞こえるはずのない、小さな、でも、はっきりとした、声がした。
「……だめだよ、溢喜。……まだ、朝だよ?」
その、あまりにも不意打ちで、あまりにも全てを見透かしたような、とろけるように甘い声。
僕の思考は、完全に、ショートした。
(……起きてたのか!? いつから!?)
僕の心の中の絶叫。
それをあざ笑うかのように、彼女は、僕の背中に、自分の顔を、さらに深く、うずめてきた。
そして、もう一度、今度は、確信犯のように、こう、囁いた。
「……私の、勝ち、だね」
僕らの、忘れられない一週間の旅。
その、七日目の朝は、僕の、完膚なきまでの、甘い、甘い、敗北で、幕を開けた。




