第百三十話 君の髪と、僕の指
忘れられないクリスマスイブから一夜明け、旅行六日目。
十二月二十五日、クリスマスの朝は、雲一つない、完璧な快晴だった。
僕が目を覚ますと、隣で眠っていたはずの、優愛の姿がなかった。
(……あれ?)
ベッドの上に残された、彼女の温もりと、甘い香り。
僕が、少しだけ寂しい気持ちで体を起こすと、バスルームの方から、シャワーの音が聞こえてきた。
(……そっか)
僕は、ベッドの上で、昨夜の出来事を、もう一度、反芻する。
プレゼント交換、デッキでのキス、そして、部屋に戻ってからの、甘い時間。
その一つ一つを思い出すだけで、どうしようもなく、顔が熱くなる。
ガチャリ、と、バスルームのドアが開いた。
出てきたのは、少しだけ頬を上気させた、バスローブ姿の優愛だった。
濡れた髪から、ぽたぽたと、雫が滴り落ちている。
「あ……。おはよう、溢喜」
「お、はよう……」
その、あまりにも無防-備で、あまりにも美しい姿に、僕の心臓は、朝から、フルスロットルで鳴り響いていた。
「……髪、乾かさないと、風邪ひくぞ」
僕は、しどろもどろになりながらも、なんとか、それだけを絞り出した。
すると、彼女は「うん、そうだね」と、はにかんだ。
「……ドライヤー、取ってくれる?」
「お、おう」
僕は、洗面台に置かれていたドライヤーを手に取り、彼女に渡そうとする。
すると、優愛は、それを受け取らずに、ドレッサーの前にちょこんと座った。
そして、鏡越しに、僕の顔を見て、こう言った。
「……乾かして、くれる?」
その、あまりにも不意打ちで、あまりにも甘い「おねだり」。
僕の思考は、一瞬、完全にフリーズした。
「え……。い、いや、でも、僕、やったことないし……」
「……だめ?」
不安そうに、潤んだ瞳で、僕を見上げてくる彼女。
そんな顔で、そんなことを言われたら、断れるはずがなかった。
「……分かったよ」
僕は、観念して、彼女の後ろに立った。
ドライヤーのスイッチを入れると、温かい風が、ごう、と音を立てる。
僕は、恐る恐る、その風を、彼女の濡れた髪に当てた。
そして、空いている方の左手で、そっと、彼女の髪に、指を通す。
シルクみたいに、滑らかで、柔らかい感触。
指先に絡みつく、甘いシャンプーの香り。
ドライヤーの熱よりも、ずっと熱い何かが、僕の体中を、駆け巡った。
(……やばい。心臓、もたない)
鏡の中の僕の顔は、きっと、耳まで真っ赤だ。
でも、鏡の中の彼女は、僕の不器用な手つきを、心の底から、愛おしそうに、幸せそうに、見つめていた。
その表情に、僕は、もっと、どうしていいか、分からなくなる。
「……ありがとう、溢喜。すごく、上手」
「……そうか?」
「うん。……世界で一番、優しい手」
その、とどめの一言に、僕はもう、何も答えられなかった。
ただ、彼女の髪を乾かす、その、単純な作業が。
世界で一番、特別で、幸せな時間のように、感じられた。
僕らの、忘れられないクリスマスの日は、こうして、今までで一番、甘くて、どうにかなりそうな朝を迎えた。




