第百二十四話 君のエプロンと、僕の心臓
僕らの、旅行五日目の朝。
十二月二十四日、クリスマスイブは、僕の腕の中で眠る、世界で一番愛おしい寝顔と共に、幕を開けた。
「……おはよう、溢喜」
「おはよ、優愛」
どちらからともなく、そう言って、笑い合う。
もう、昨日までの、少しだけ気恥ずかしい空気はない。
ただ、どうしようもなく幸せで、満ち足りた時間が、僕らの間を流れていた。
「……お腹、すいたね」
「ああ」
僕が、名残惜しそうに、彼女を抱きしめる腕を緩めると、優愛は、するりとベッドから抜け出した。
そして、クローゼットから着替えを取り出すと、僕に背を向けて、少しだけ、もじもじとしている。
(……あ、そっか)
僕は、慌ててベッドに潜り込み、顔まで布団をかぶった。
「……見てない!見てないから!」
僕の、あまりにも子供っぽい反応に、布団の向こう側から、優愛の、くすくす、と楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
朝食を終えた後、僕らは、船内がクリスマスの特別な飾り付けで彩られているのに気づいた。
あちこちに、クリスマスツリーや、きらびやかなイルミネーションが飾られている。
「すごい……!」
「本当だ……」
その日の午前中、僕らは、船内のキッチンスタジオで開かれていた、「クリスマスケーキ作り体験」に参加することにした。
スタジオに入ると、甘い香りと、楽しそうな参加者たちの声で溢れていた。
僕らも、それぞれ、白いエプロンを受け取る。
「うわ、これ、どうやって結ぶんだ……?」
僕が、背中に回したエプロンの紐と格闘していると、隣から、優愛の、呆れたような、でも楽しそうな声がした。
「もう、しょうがないなあ。……じっとしてて」
優愛が、僕の後ろに回り込む。
そして、その小さな手が、僕の腰のあたりで、エプロンの紐を結んでくれる。
……近い。
背中に、彼女の柔らかな感触と、温かい吐息。
そして、ふわりと香る、甘いシャンプーの匂い。
僕の心臓が、大きく、ドクン、と鳴った。
「……よし、できた」
「あ、ありがと……」
僕の声が、自分でも驚くくらい、うわずっていた。
「どういたしまして」
そう言って、僕の前に回り込んできた彼女の顔は、ほんのり、赤く染まっている。
僕の、あまりにも分かりやすい反応に、気づいてしまったんだろう。
(……だめだ。完全に、ペースを握られてる)
僕らは、顔を見合わせたまま、どちらも、何も言えずに、固まってしまった。
周りの喧騒も、何も聞こえない。
ただ、僕らの、速くなった心臓の音だけが、やけに大きく、響いていた。
僕らの、忘れられないクリスマスイブは、どうやら、波乱万丈な幕開けとなったようだった。




