第百十六話 寝たフリの、向こう側
僕の意識を、ゆっくりと現実へと引き戻したのは、窓の隙間から差し込む、柔らかな光と……頬を、つんつん、と優しくつつかれる、不思議な感触だった。
(……なんだ?)
まだ重い瞼を開けずにいると、今度は、僕の鼻を、小さな指が、そっと、つまんだ。
そして、すぐに離れる。
その、あまりにも子供っぽくて、可愛らしいいたずらに、僕は、一瞬で誰の仕業かを悟った。
(……優愛か)
そうだ。僕らは、旅行に来ているんだ。
昨夜は、杏奈先輩の捜索で疲れて、ベッドに入ってすぐに、眠ってしまったんだっけ。
僕は、そのまま、静かに寝たフリを続けることにした。
僕が眠っていると思って、油断しきっている彼女が、次に何をするのか、見てみたくなったのだ。
隣で、優愛が、くすくす、と、声を殺して笑っている気配がする。
やがて、彼女は、僕の髪を、そっと、優しく撫で始めた。
まるで、壊れ物を扱うみたいに、丁寧な手つきで。
その、あまりにも優しい感触に、僕の心臓が、きゅん、と甘く鳴った。
なんだよ、それ。反則だろ。
彼女は、しばらく僕の髪を撫でていたが、やがて、その手は、ゆっくりと、僕の顔の輪郭をなぞり始めた。
眉、目、鼻、そして……。
僕の、唇の上で、彼女の指が、ぴたり、と止まった。
(……!)
心臓が、大きく、跳ねる。
頼む、聞こえるなよ。
僕が、必死に平静を装っていると、彼女は、ほんの少しだけ、ためらった後。
その指先で、僕の唇を、そっと、なぞった。
もう、ダメだ。
限界だ。
僕は、次の瞬間。
今まで眠っていたのが嘘だったかのように、勢いよく、彼女の体を、腕の中に、抱きしめていた。
「わっ……!?」
僕の、突然の行動に、優愛が、素っ頓狂な声を上げる。
僕は、彼女を、ぎゅっと、抱き枕みたいに抱きしめると、耳元で、囁いた。
「……おはよう、優愛。僕の顔で、遊ぶのは、楽しいか?」
「い、いつから……起きて……!?」
「最初から」
僕の腕の中で、彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていくのが、分かった。
その、あまりにも可愛すぎる反応に、僕は、もう、どうしようもないくらいの優越感で、胸がいっぱいになった。
「……降参、か?」
僕が、少しだけ意地悪くそう言うと、彼女は、僕の胸に顔をうずめたまま、小さな声で、こう言った。
「……まだ」
そして、彼女は、僕の腕の中から、少しだけ顔を上げて、僕の唇に、ちゅ、と、触れるだけの、キスをした。
「……これで、おあいこ、でしょ?」
そう言って、悪戯っぽく笑う彼女は、間違いなく、僕が知っている中で、一番、可愛くて、そして、一番、敵わない、僕だけの、最高の彼女だった。




