第百十四話 星空の下の、道しるべ
「はあっ、はあっ……!」
心臓が張り裂けそうなくらい、きつい坂道。
僕の後ろを、優愛も、息を切らせながら、必死についてきてくれる。
繋いだ彼女の手の温かさだけが、僕の心を支えてくれていた。
やがて、僕らの目の前に、木々が開けた、小さな広場が見えてきた。
島の、一番高い場所にある、展望台。
昼間は、観光客で賑わっていたであろうその場所も、今は、静まり返っている。
広場の中央には、ベンチが一つだけ。
そして、そのベンチに、一人、ぽつんと座り、膝を抱えている、華奢な後ろ姿。
「……杏奈、先輩……!」
僕の声に、その姿が、びくりと肩を揺らす。
ゆっくりと振り返った彼女は、僕と優愛の姿を認めると、驚いたように、大きく目を見開いた。
その目には、涙の跡が、くっきりと残っていた。
「……青空、くん? 海波、さん……? なんで、ここが……」
「よかった……! 無事で……!」
僕と優愛は、その場に崩れ落ちるようにして、肩で、大きく息をついた。
見つかった。本当に、よかった。
「ご、ごめんなさい……。携帯、落として、壊れちゃって……。帰り道も、分からなくなって……」
杏奈先輩が、涙ながらに事情を話してくれる。
ケンカして、一人で歩いているうちに道に迷い、途方に暮れていた時。暗闇の中で、丘の上に見えた、展望台の明かりだけを目指して、ここまで登ってきたのだという。
「瀧川先輩、すごく、心配してましたよ」
優愛が、優しく声をかける。
その言葉に、杏奈先輩の瞳が、また、じわりと潤んだ。
「……うん。私も、会って、謝りたい……」
その時だった。
「――杏奈!」
坂道の下から、息を切らせて駆け上がってきたのは、瀧川先輩だった。
僕が、ここに向かうとメッセージを送っておいたのだ。
彼の目にも、涙が浮かんでいる。
「……譲くん」
「……馬鹿野郎! どれだけ、心配したと……!」
言葉とは裏腹に、瀧川先輩は、杏奈先輩の体を、壊れ物を扱うように、優しく、優しく、抱きしめた。
杏奈先輩も、彼の胸に顔をうずめて、子供みたいに、声を上げて、泣いていた。
その光景を、僕と優愛は、少しだけ離れた場所から、黙って、見つめていた。
間に合った。
よかった。
ふと、空を見上げる。
そこには、満点の星空が、広がっていた。
プラネタリウムで見た、作り物の星空じゃない。
本物の、星の海。
「……溢喜」
「ん?」
「……なんで、ここだと思ったの?」
優愛の、小さな問いかけ。
僕は、星空を見上げたまま、答えた。
「……分かんない。でも、なんとなく、思ったんだ。もし、杏奈先輩が、道に迷って、不安になったら……。きっと、一番、綺麗な星が見える場所を、探すんじゃないかなって」
それは、ただの、僕の勘だった。
でも、その勘は、確かに、正しかった。
「……そっか」
優愛は、それだけ言うと、僕の肩に、こてん、と、頭を預けてきた。
「……今日の溢喜、やっぱり、すごく、かっこいい」
その、あまりにもストレートで、あまりにも甘い言葉。
僕は、照れくさくて、何も言い返せなかった。
ただ、彼女の肩を、そっと、抱き寄せる。
全員で船に戻り、それぞれの部屋に帰る。
僕と優愛は、もう一度、部屋のバルコニーに出た。
さっきまでの緊張が嘘のように、穏やかな時間が流れている。
やがて、船の、出航を告げる、長い汽笛が、夜の港に、響き渡った。
船が、ゆっくりと、岸壁を離れていく。
遠ざかっていく島の夜景を見ながら、僕らは、どちらからともなく、深く、安堵のため息をついた。
「……終わった、ね」
「ああ。……疲れたな」
僕が、そう呟いた、その瞬間だった。
ぐぅぅぅぅぅ~~~~。
静まり返ったバルコニーに、間の抜けた音が、盛大に響き渡った。
音の発生源は、僕のお腹。
「「……」」
一瞬の沈黙。
やがて、優愛が、俯いて、肩をぷるぷると震わせ始めた。
「……笑うなよ」
「だ、だって……ふふっ、あははは!」
ついに、こらえきれなくなったように、彼女が声を上げて笑い出す。
その、あまりにも楽しそうな笑顔に、僕も、つられて笑ってしまった。
そうだ。
僕ら、晩ごはん、食べてなかったんだ。
僕らの、少しだけスリリングで、でも、忘れられない三日目の夜は、どうやら、まだ、終わりそうになかった。




