第百十二話 二人だけの、夜の船
二度目のキスは、少しだけ、しょっぱい潮風の味がした。
でも、それ以上に、どうしようもなく、甘かった。
僕らは、どちらからともなく、ゆっくりと唇を離す。
目の前には、顔を真っ赤にして、でも、幸せそうに、とろけるような目をした優愛がいた。
「……部屋、戻ろっか」
「……うん」
僕らは、どちらも、まともに顔を見合わせられないまま、バルコニーから部屋の中へと戻った。
静まり返った部屋。
昼間とは比べ物にならないくらい、甘くて、濃密な空気が、僕らの間を流れている。
「……シャワー、浴びてくる」
「あ、ああ……」
優愛がバスルームに消えていく。
一人、部屋に残された僕は、まだ熱い自分の唇に、そっと指で触れた。
(……僕、本当に、キス、したんだな)
その事実が、まだどこか夢みたいで、ふわふわとしていた。
僕もシャワーを浴びて部屋に戻ると、優愛は、バスローブ姿で、ベッドの端にちょこんと腰掛けて、窓の外を眺めていた。
その、あまりにも無防備で、あまりにも美しい姿に、僕の心臓が、また大きく跳ねる。
「……あのさ」
僕が、何かを言いかけた、その時だった。
ブルルルル……!
静寂を破って、僕のスマホが、激しく震えた。
画面に表示されたのは、「瀧川先輩」の名前だった。
「……もしもし?」
『おお、溢喜か! 悪い、今どこにいる!?』
電話の向こうの先輩の声は、なぜか、ひどく焦っているようだった。
「え、部屋ですけど……。どうかしたんですか?」
『それがな、大変なんだ! 杏奈が、いなくなっちまった!』
「え!?」
どうやら、先輩カップルは、夕食の後、二人で島に降りて、夜の散歩をしていたらしい。
『ちょっとしたことで、口論になって……。杏奈が「一人になる」って言って、走り去っちまったんだ。もう一時間以上経つのに、電話にも出なくて……』
船の出航時間は、もう一時間後に迫っていた。
「……分かりました。僕らも、探しに行きます!」
『……すまん、助かる! 俺は、あいつと最後にいたカフェの周辺を探してる!』
「分かりました! じゃあ、僕と優愛で、他の場所を手分けして探します!」
電話を切り、僕は、何があったのかと不安そうに見ている優愛に、事情を説明した。
彼女は、一瞬驚いた顔をしたが、すぐに、きっぱりとした顔で頷いた。
「うん、行こう!」
僕らは、急いで服を着替え、部屋を飛び出した。
船を降り、夜の寄-港地の、ひんやりとした空気に身を晒す。
街灯の頼りない光だけが、石畳の道を照らしていた。
「……どうする?」
優愛が、僕の顔を見て尋ねる。
僕は、頭の中で、昼間歩いた島の地図を思い浮かべながら、言った。
「先輩は、カフェの周辺を探してる。だから、僕たちはそれ以外の場所だ。僕は、昼間に行ったマーケットの方を見てくる。優愛は、ビーチの方、頼めるか? 危ないと思ったら、すぐに連絡しろよ」
「うん、分かった!」
僕らは、二手に分かれて、走り出した。
さっきまでの甘い空気は、どこかへ消えてしまった。
でも、不思議と、嫌な気はしなかった。
杏奈先輩、無事でいてくれ。
そして、安心してくれ、優愛。
僕も、もう、ただ守られてるだけの男じゃないんだ。
僕は、夜のマーケットの中を、杏奈先輩の名前を呼びながら、全力で、駆け抜けた。




