第百十一話 君への嫉妬と、僕の劣等感
体験教室が終わり、気まずい空気のまま、二人で夕暮れのビーチを歩く。
先に沈黙を破ったのは、僕だった。
「……あのさ、優愛」
「……なに」
明らかに、不機嫌な声。
「さっきの……その、怒ってる、のか?」
僕が、おそるおそるそう尋ねると、優愛は、ふいに立ち止まり、僕の方へと向き直った。
でも、すぐに、ぷいっと、そっぽを向いてしまう。
「……別に、怒ってない」
「え……」
「怒ってないけど……でも、なんか……」
優愛は、足元の砂を、つま先でいじりながら、小さな、でも、はっきりとした声で、こう言った。
「……なんか、悔しかった」
「悔しかった?」
「うん。……あの先生、すごいなって。あんな風に、自然に、誰かに何かを教えてあげられて。それに、英語も、ペラペラで……。私、全然、あんな風にはできないから」
拗ねたように、唇を尖らせる、その横顔。
それは、僕が想像していたような、単純な「ヤキモチ」ではなかった。
僕にはできないことを、軽々とやってのける、他の誰か。そして、そんな相手と、僕が楽しそうにしている(ように見えた)ことへの、小さな、小さな劣等感。
その、あまりにも不器用で、あまりにも可愛すぎる感情に、僕はもう、どうしようもないくらいの愛おしさで、胸がいっぱいになった。
だって、それは――
「……僕も、同じだよ」
「え?」
僕の、思わぬ告白に、優愛が、驚いたように、大きく目を見開く。
「僕も、悔しかった。優愛が、僕の知らない言葉で、あの先生と、楽しそうに話してるの見て。すごいなって、尊敬するのと、同時に……。僕だけが、仲間外れみたいで、すごく、惨めだった」
僕の、本当の気持ち。
それを聞いた優愛は、一瞬きょとんとした後、やがて、その瞳に、じわりと、涙を浮かべた。
そして、次の瞬間。
彼女の顔が、ふわりと、どうしようもないくらい、嬉しそうに、綻んだ。
「……そっか。……一緒、だね」
その笑顔を見た瞬間、僕の胸の中の、小さな棘のようなものが、すっと、溶けていくのを感じた。
ヤキモチは、苦しいだけじゃない。
相手も、同じように、僕のことを見て、僕と同じように、悩んでくれていた。
その事実を知った時、こんなにも、温かくて、幸せな気持ちになるんだ。
連絡船に乗り込み、ライトアップされた豪華客船へと戻る。
部屋のバルコニーに出ると、ひんやりとした夜風が、火照った頬に心地よかった。
眼下には、宝石を散りばめたように輝く、島の夜景が広がっている。
「……綺麗だね」
「ああ」
二人で、手すりに寄りかかり、その美しい光景を、黙って眺めていた。
ふと、隣に立つ優愛の、白い肩が、小さく震えているのに気づいた。
昼間は暖かかったけれど、夜の海上は、少しだけ、肌寒い。
僕は、何も言わずに、自分が羽織っていたカーディガンを、そっと、彼女の肩にかけた。
「あ……」
「風邪、ひくだろ」
「……ありがと」
僕のカーディガンに、すっぽりと包まるようにして、彼女が、僕の腕に、こてん、と、頭を預けてきた。
肩にかかる、愛おしい重み。
シャンプーの甘い香りが、僕の心を、優しく満たしていく。
「……ねえ、溢喜」
「ん?」
「……今日の、お返し」
そう言って、彼女は、僕の顔を、潤んだ瞳で、見上げてきた。
そして、精一杯、背伸びをした。
僕らの唇が、ゆっくりと、重なる。
二度目のキスは、少しだけ、しょっぱい潮風の味がした。
でも、それ以上に、どうしようもなく、甘かった。
僕らの、忘れられない三日目の夜は、こうして、静かに、更けていった。




