第百六話 仮面の下の、本当の笑顔
どれくらいの時間、踊っていただろうか。
夢のようなワルツの曲が、ゆっくりと終わりを告げる。
僕らは、周りの乗客たちからの温かい拍手に包まれながら、どちらからともなく、深く、お辞儀をした。
「……すごかったね、溢喜」
フロアの隅に戻り、息を弾ませながら、優愛が興奮したように言った。
「いや、僕なんて、めちゃくちゃだったろ。優愛が、合わせてくれただけだ」
「ううん、そんなことないよ。すごく、リード、上手だった」
そう言って、はにかむ彼女の顔は、仮面をつけていても分かるくらい、真っ赤に染まっていた。
僕も、きっと、同じような顔をしていたに違いない。
「……少し、風に当たらないか?」
僕がそう言うと、優愛は「うん」と、こくりと頷いた。
僕らは、喧騒に満ちたホールを抜け出し、静かな夜のデッキへと向かう。
ひんやりとした潮風が、火照った頬に心地いい。
遠くで、まだワルツの音楽が、微かに聞こえていた。
「……楽しかった」
手すりに寄りかかり、満点の星空を見上げながら、優愛がぽつりと呟いた。
「ああ。……僕も、すごく、楽しかった」
僕らは、どちらからともなく、そっと、仮面を外した。
素顔に戻った瞬間、なんだか、少しだけ、気恥ずかしい。
「……なんか、変な感じ」
優愛が、くすくすと笑う。
「何が?」
「仮面つけてる時の方が、なんか、大胆になれた気がして」
「……分かる。僕も、そうだ」
あの時、僕が彼女をダンスに誘えたのも。
彼女が、迷わずに僕の手を取ってくれたのも。
全部、あの仮面が、僕らに、ほんの少しの勇気をくれたからなのかもしれない。
「……でも」
僕は、隣に立つ彼女の方へと、向き直った。
そして、彼女の、仮面を外した、本当の顔を、まっすぐに見つめて、言った。
「僕は、仮面をつけてない、今の優愛の顔の方が、ずっと好きだ」
僕の、あまりにもストレートな言葉。
優愛は、息を呑んだように、大きく目を見開いた。
その瞳が、星明かりを反射して、キラキラと揺れている。
「……ずるいよ、溢喜」
「そうか?」
「うん。……そういうこと、不意打ちで言うの、一番、ずるい」
そう言って、彼女は、僕の胸に、こつん、と、自分の額を押し当ててきた。
顔を、隠すように。
その、あまりにも可愛すぎる仕草に、僕はもう、たまらなくなって、彼女の華奢な体を、そっと、抱きしめた。
僕の腕の中で、彼女の体が、びくりと小さく震える。
「……優愛」
「……ん」
「明日、寄港地、楽しみだな」
「……うん」
「プレゼント、一緒に探さないか? お互いの」
「……え?」
顔を上げた彼女の、驚いたような、でも、どうしようもなく嬉しそうな顔。
その顔を見て、僕は、心の中で、小さくガッツポーズをした。
僕らの、忘れられない仮面舞踏会の夜。
それは、明日から始まる、もっと特別な時間への、最高のプロローグになった。
そんな確信に満ちた、甘い夜だった。




