第百三話 先輩カップルと、恋人一年生
『……わたしの、いつき』
あの、とろけるように甘い「おはよう」の破壊力は凄まじく、僕と優愛は、部屋を出てからも、まだお互いの顔をまともに見ることができなかった。
エレベーターの中、無言の時間が流れる。時々、肩が触れ合うだけで、二人してびくりと体を震わせてしまう。
(……だめだ。完全に、意識しすぎてる)
僕らが、ぎこちないままレストラン――朝食は、好きなものを取って食べられる、ビュッフェ形式らしい――にたどり着き、窓際の空いている席を見つけた、その時だった。
「おや、奇遇だね。青空くんと、海波さんじゃないか」
聞き覚えのある、穏やかで、でもどこか芯のある声。
顔を上げると、そこには、僕らが見つけた席のすぐ隣で、優雅にコーヒーを飲んでいる、瀧川先輩と杏奈先輩の姿があった。
「「せ、先輩!?」」
僕と優愛の声が、綺麗に重なった。
「おはよう、二人とも。まさか、こんなところで会うなんてね」
杏奈先輩が、にこりと人の心を溶かすような笑みを浮かべる。
「どうして、お二人が、この船に……?」
僕が尋ねると、瀧川先輩は「ああ、それはな」と、事もなげに言った。
「俺の親父も、杏奈の母親も、二人とも光道グループの社員なんだよ。それで、会社の福利厚生か何かで、このクリスマスクルーズのチケットをもらったらしくてな。『たまには、二人で行ってこい』って、譲ってもらったんだ」
光道、グループ。
その単語に、僕と優愛は、息を呑んで顔を見合わせた。
すごい偶然だ。
でも、考えてみれば、この豪華な船旅を企画しているのも、光道グループの関連会社なのかもしれない。
「そっか……。そうだったんですね」
「まあ、そんなわけだから。……で?」
瀧川先輩は、僕と優愛の、まだ少しぎこちない空気と、真っ赤になっている顔を、面白そうに見比べて、ニヤリと笑った。
「お前ら、その反応。さては、昨夜、何か進展でもあったな?」
「ぶっ!?」
ちょうど、通りかかったウェイターさんが置いてくれた水を、僕は吹き出しそうになる。
優愛も、「な、ななな、何でもありません!」と、わたわたと手を横に振っている。
僕らの、あまりにも分かりやすい反応に、先輩カップルは、楽しそうに笑い合った。
「まあまあ、譲くん。そんなにからかわないの」
杏奈先輩が、瀧川先輩を優しくたしなめる。そして、優愛の方を向いて、そっと囁いた。
「でも、よかったね、海波さん。……すごく、幸せそうな顔してる」
その、あまりにも優しい言葉に、優愛の瞳が、少しだけ潤んだ。
「……はい」
小さな声で、でも、確かにそう頷いた彼女の顔は、僕が今まで見た中で、一番、綺麗だった。
その日の朝食は、自然な流れで四人で一緒に食べることになった。
「あーん」なんて、僕らの前で平気でやってのける先輩カップル。
その、あまりにも自然で、完成された「恋人」としての振る舞いを目の当たりにして、僕と優愛は、ただただ、顔を真っ赤にしながら、圧倒されることしかできなかった。
(……すごい。恋人って、あんなことまで、できるのか)
僕らは、まだ、恋人一年生。
学ぶべきことは、どうやら、まだまだ、たくさんありそうだった。




