第百二話 世界で一番、甘いおはよう
僕の意識を、ゆっくりと現実へと引き戻したのは、窓の隙間から差し込む、柔らかな光だった。
ゆっくりと目を開ける。
見慣れない、船室の天井。
そうだ、僕らは今、旅行に来ているんだ。
そこまで思い出して、僕は、自分の状況が全く普通ではないことに、思い至った。
右腕が、痺れて、感覚がない。
そして、その腕の上には、確かな重みと、温もり。
「……」
僕は、恐る恐る、視線を、右に向けた。
そこには、僕の腕を枕代わりにして、すぅすぅと、穏やかな寝息を立てている、優愛の寝顔があった。
昨日、僕が眠れずに、ずっと見つめていた、愛おしい寝顔。
いつの間にか、僕も眠ってしまっていたらしい。
至近距離に、彼女の顔。
少しだけ開かれた、唇。
穏やかな寝息に合わせて、上下する、華奢な肩。
朝日が、彼女の柔らかな髪を、キラキラと金色に輝かせている。
(……やばい。可愛すぎる)
心臓が、朝の静寂の中で、ドクッ、と大きく鳴った。
起こしてはいけない。
分かっているのに、僕は、彼女の寝顔から、目が離せない。
僕は、そっと、空いている方の左手を伸ばした。
そして、彼女の、頬にかかった一筋の髪を、優しく、払ってあげる。
その指先に、彼女の肌の、信じられないくらい滑らかな感触が伝わってきて、また心臓が跳ねた。
その瞬間。
「……ん」
優愛の目が、ゆっくりと、開かれた。
「……!」
目が、合った。
寝ぼけ眼で、まだ焦点の合っていない、潤んだ瞳。
その瞳が、数秒かけて、ゆっくりと、僕の姿を捉えた。
そして、彼女は、まだ夢の中にいるような、とろけるように甘い声で、こう言った。
「……おはよ、わたしの、いつき」
僕の思考は、完全に、ショートした。
嬉しいとか、ドキドキするとか、そういうレベルじゃない。
脳が、焼き切れそうだった。
「……あ、れ……?」
優愛は、自分が僕の腕枕で眠っていることに、ようやく気づいたようだった。
そして、自分が今、何を口走ったのかを、理解した。
「……!」
次の瞬間。
彼女の顔が、今まで見たことがないくらい、真っ赤に染まった。
そして、勢いよく体を起こすと、僕から飛びのくようにして、ベッドの反対側の端まで転がっていった。
「ご、ごごご、ごめん! 私、なんで……!」
「い、いや、大丈夫……!」
二人して、顔を真っ赤にして、わたわたする。
気まずい。最高に、気まずい。
でも、それ以上に。
(……もう一回、言ってほしい)
僕は、どうしようもなく、そう思ってしまった。
僕らの、忘れられない一週間の旅。
その二日目の朝は、僕の人生で、一番、甘くて、どうにかなりそうな、最高の「おはよう」で、幕を開けた。




